日本一周の旅
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2008.02.28

From:  orimasa

日本周遊紀行(89) 津軽海峡・・U「船中余談・松浦武四朗のこと」

ところで、北海道を一周して又、この執筆中に「松浦武四朗」という人物によく出会う。

歌碑や像、顕彰碑が各所に在り、釧路市の中心街には「松浦町」という地名まであった。 往時の釧路市の議長が市史を調べるうち「松浦武四朗」が・・、『この道東の地(釧路)は将来、相当に発展するだろう”・・』というくだりの文章を見つけて、町名を松浦町にしたというエピソードもある。

既に 御存知であろうが・・?、松浦武四朗は「北海道の父」といわれ、「北海道の名付け親」でもある。
北海道の地名や郡名に、アイヌへの敬愛の気持ちを込めてアイヌ語を生かした名前を付けたという。
北海道の「海」は元々は「加伊」の読みであって、アイヌ人はこの地を「加伊」と呼んでいた。 武四郎はアイヌと交流するうちに『北海道』という名前を「北の国に生まれたアイヌの大地」という親愛の情を込めて名付け、支庁名、郡名についても武四郎は「地名はその土地の文化である」として、アイヌ語地名に基づいて選定を行ったという・・。

松浦武四郎は1818(文政元)年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。
三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)ともいわれ、一般には他の二人よりは余り知られていないようだが・・旅行家、探検家であり地理学者であった。

生家実家は伊勢神宮の参道に通じる参宮街道に面していた。 
少年の頃、「お陰参り」といって伊勢神宮に60年に一度の大祭があり、この参道をお参りする人々が一年間に400〜500万人もいたといわれていた。
当時の日本の人口の一割以上の人が通ったことになるという・・、武四朗少年はこれをきっかけに「旅」に目覚めたという・・。

十代前半から西日本の各地を旅行しながら長崎に着いた時、ロシアが蝦夷地に通商開港を願い出ているのを知って(このとき長崎は既にオランダ等と開港していた)急きょ蝦夷地へ向かった。
個人的には既に蝦夷地を三回徒歩していて、このとき「羊蹄山」等、冬の北海道の山を完登している・・。 又、これらの経験を見い出され幕府用人としても三回、蝦夷探検を実施している。 
「北海道」を命名したのはこの時期であり、合わせて北海道の巨大地図をも完成させている・・。 描かれた地図は伊能忠敬が描いた蝦夷地図より更に厳密なものに成っていて、例えば北海道最大の河川「石狩川」は、現在日本の流域で2番目、長さで3番目であるが、その昔は相当に広く、長かったことが判るという・・。 これは河川の開拓や改修が頻繁に行はれた事によるものであるとのこと。

江戸時代が終わり明治時代へと変わると、明治政府は蝦夷地へ「開拓使」という役所をつくる。 政府は、数々の業績を持ち、蝦夷地通と誰もが認める松浦武四郎を初代「開拓判官」に任命した。 
明治政府の役人になった武四郎は、蝦夷地の新しい名前や開拓政策を提案する。 
武四郎が目指した北海道は、アイヌと和人(日本語を母国語とする人々)が共に仲良く暮らすことができる大地であったが・・、しかし、一年余りで退任しているという。

それは何故か・・?、
武四郎の意思とは全くそぐわない、明治政府のアイヌへの政策であったのであった。
アイヌは、1871年の戸籍法公布とともに「平民」として日本国に編入されるが、実際の戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされたのであった。  
翌1872年には、伝統的の継承されてきたアイヌの文化や風俗は取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。 
又、アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。
その後も、アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。 
しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあり、法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようである。 この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの本業を営もうとするアイヌには一切援助は出さなかったいう。

この様な有様を見聞するに及んで武四郎は、開拓使の役人たちと度々口論になることが多かった。 政府要人に対しても意見書等を出し激論を交わしたりしたが、一向に改革する気配が無く、更に、旧幕府時代の「場所請負人」という悪業制度が引き継がれるに及んで、遂に開拓判官の職を辞してしまう。
この後は任官することなく、東京神田に隠居し、時折、大好きな山のぼりを楽しんだという。
松浦武四朗の気骨ある一面を示したとも云える・・。


次回からは、 「温泉と観光」編、北海道東部の主要観光地を巡ります。


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2008.02.28 11:06:49

2008.02.26

From:  orimasa
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日本周遊紀行(88) 「津軽海峡」

16時20分(平成16年10月1日)、大間行きのフエリーは定刻に出航した。 9月24日18時、ここ函館に上陸して一週間で道内の海道を巡ったことになる。 
「函館山」を左に見ながら、永かった北海道に別れを告げる・・。 
牛が寝そべっているようにみえることから別称「臥牛山」ともいわれている通り、市街地から見える錐形の山と異なって、上部付近はなだらかな台地上をなしていた。 
この函館山が左舷前方より次第に迫ってきて、やがて後方に去っていった。 傾いた夕日もやがてこの海峡に吸い込まれようとしている。 
夕時・・、海は凪いでいた。

「津軽海峡」・・、
海峡とは、陸や島の間の海域を示す地形名であるが、一般的には同様の地形名である瀬戸や水道よりも規模の大きい場合に使われるようである。
しかし、瀬戸内海や紀伊水道は規模的にはどうなんであろうか・・?。

あの好奇心と知識欲の旺盛な吉田松陰は、竜飛崎に立って津軽海峡越しの蝦夷地を眺めてはいるが渡ってはいない。 
海峡は、津軽までやってきた旅人でも嘗ては、その先の旅路を諦めるに充分な荒海であり、当時は容易に越すに越されぬ荒ぶる大自然そのものであったのだ・・。
しかし、荒々しい海峡を果敢に攻めた人物もいた・・。
伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四朗などは別格としても、この地で独立国家を夢見た土方歳三や榎本武揚、蝦夷の莫大な物産に目を見張り日本海の海運路を切り開いた高田屋嘉兵衛、ベイエリアに赤レンガ倉庫群を建設した渡辺熊四郎など、函館の地に大いなる夢を見た御仁人々だった。


ところで、小生、北海道へ渡る時も同様にこの海峡、海域を通っているが、津軽海峡は、この地(海)が最も幅が狭い海域なのである。(実際は汐首岬と下北半島の大間崎の間で、約19kmある) この海域に対し西側の松前の白神岬と津軽半島竜飛崎間は20kmとやや長い。
太古の昔、日本列島が今の形になる以前、津軽海峡は所謂、瀬戸か水道の様な狭い地域であった。 中央部の海底は、峡谷のような地形で東西に伸びていたらしいが、この海底の水深が約140mと一番浅くなっている地帯が「竜飛⇔白神岬」の間である。 
その為、ここを鉄道専用の「青函トンネル」(津軽海峡線)が通っているのである。

海峡に、実際の道路トンネルや道路橋はないが、名目上は国道279号、国道280号、そして国道338号などが横断しているという。
国道279号は、現在小生が乗っているこの連絡船航路がそうであって、起点が函館市若松町・函館駅前交点から、終点は青森県野辺地町の松ノ木平交点で陸上距離・107.0km、海上区間が津軽海峡(函館⇒大間、東日本フェリー航路)となっている。 大間の港には、R279からフェリーへと標識で表示されている。

国道280号は、起点が青森市長島2丁目(国道4号・国道7号終点)から、終点は函館市万代町(万代跨線橋交点=国道5号交点)で陸上距離・142.0q、海上区間は三厩⇒福島間の津軽海峡である。 青函トンネル建設時はこの区間のフェリー(東日本、三福)で資材の通運が行はれた。 又、江戸期、松前藩の参勤航路でもあり「松前街道」でもあった。

国道338号は、函館から下北半島の大間まで海上区間を含め国道279号と重複するが、下北半島では西岸・南岸(佐井、脇野沢、川内)を経由する道路であり、むつ市からは太平洋沿岸部を通り六ヶ所村、三沢、下田までの国道である。


この海峡、この船の下に「日本一のマグロ」が泳いでいるんだと思うと何だか不思議な気がする。
今はこの大海に一隻の船も見当たらないが、早朝、多い時で100隻近い船がマグロを追ってゴッタ返すという・・!。 
大間は近海マグロの産地として昔から「1匹獲れれば数百万円」といわれる夢を追って、そしてそれを実現しようとする漁師で溢れる。 
築地でも「大間産マグロ」は、今では1kgで4万、5万と値が付き200キロ超のマグロだったら一匹で1千万円にもなるという。

そもそも、マグロにはミナミマグロやキハダ、メバチ、カジキなどと色々あるが、大間のマグロこそ本マグロと言われる「黒マグロ」なのである。
南太平洋で産まれて、その群れが黒潮にのって北上し日本沿岸にやって来る。 そして、親潮と黒潮のぶつかるエサの豊富な東北北部、津軽海峡は一大漁場となるのである。 
大間の沖の「弁天島」付近はその天然の餌場となり、真さに「大間の宝海」と言われる由縁なのである。 
しかも一番値段のいい年末年始頃に良く獲れて最高の値段がつく、それは秋に豊富なエサ食したマグロが冬には身が締まり脂が乗るからといわれる。

大間のマグロの漁方はご存知「一本釣り」であるが・・。
他にも漁方は延縄(はえなわ:1本の幹縄に多数の枝縄《これを延縄と呼ぶ》をつけ、枝縄の先端に釣り針をつけた構成となっている)、曳縄(トローリング)、定置網などが知られるが、近年は養殖ものも増加しているという。


津軽海峡といい、マグロ漁といい、この海域は小説や物語には事欠かず、特に演歌が良く似合う恰好の水域なのである。
その代表的なのが、やはり此れであろう・・、 昭和52年にはレコード大賞も受賞している。
 
『津軽海峡冬景色』 唄:石川さゆり 作詞:阿久悠、作曲:三木たかし

上野発の夜行列車 おりた時から    
青森駅は雪の中            
北へ帰る人の群れは 誰も無口で    
海鳴りだけを きいている       
私もひとり 連絡線に乗り       
こごえそうな鴎見つめ泣いていました  
ああ津軽海峡・冬景色         



次回は、 北海道の父・「松浦武四朗」


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2008.02.26 11:30:45

2008.02.25

From:  orimasa

日本周遊紀行(87) 函館・「高田屋嘉兵衛」

「函館空港」の標識を見ながら町並みが軒を連ね、賑やかさと騒々しさが増してきた、都会に来たという実感である。 
北海道に上陸した時に最初に世話になった、「湯の川温泉」を通過する。 
時々市電と並行し、或るいは、すれ違いながら函館フエリー埠頭へ着いたのは、15時時半を回ってっていた。


函館は道内を出発する際にも些か述べたが、更に詳しく述べようとすると本稿は幾行、幾枚あっても足らない。 今回は、極めてかいつまんで「高田屋嘉兵衛」(たかたや かへい)について記してみよう・・。

江戸末期の函館は、日米和親条約や日米修好通商条約により日本初の国際貿易港として開港していらい外国人居留地も設置され、異国情緒タップリのロマン溢れる街並になっている。 
この町並みの開祖といわれる重要な人物に「高田屋嘉兵衛」がいる。

高田屋嘉兵衛は、江戸時代後期、淡路島(現在の兵庫県津名郡五色町)の貧しい農民の子として生まれている。 18歳で廻船業者を志し淡路と大坂とを往復する瓦船(瓦を運ぶ専用船)に乗る。 
寛政7年(1795年)1,700石積の「辰悦丸」を建造し、本格的に廻船業へ乗り出す。
幕府役人である近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などとも接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。 
又、幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌(うりさばき)方となり、函館の北洋漁業の基を築いた功労者である。 その卓越した商才と度胸で巨万の富を得た。

文化9年(1812年)ロシア船ディアナ号艦長ゴローニンが、偶々蝦夷(北海道)沖の地理を調査中、クナシリ島で水・食料の補給を得ようと上陸した途端、警備隊に捕らえられるという事件がおこる。今度はディアナ号の近くを偶然通りかかった嘉兵衛の船が捕らえ、嘉兵衛を配下五人と共にカムチャッカへ連行抑留される。 囚われの身となった嘉兵衛は、ディアナ号の副艦長と話し合い、帰国後、松前奉行を説き伏せてロシア側に侵略の意図が無い事を納得させてゴローニンを解放し、併せて仲間の人質解放に尽力した。 直後、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられている。
晩年は、故郷淡路島に戻り、港や道路の修築など郷土のために力を尽くし、1827(文政10)年、59歳で自宅で静かにその生涯を閉じている。
作家・司馬遼太郎が、高田屋嘉兵衛を書いた小説・『菜の花の沖』の中で、「今でも世界のどんな舞台にでも通用できる人物」と称している。

江戸幕末の1858年の頃「箱館」と呼ばれる小さな港だった時代、帆に風を受けて高田屋嘉兵衛はやってきた。 
松前藩の横暴を嫌った嘉兵衛は、松前の地を敬遠して当時まだ寒村にすぎなかった「箱館」に事業拠点を構えたのである。 
その後の函館の繁栄はここにはじまるのであるが・・。


嘉兵衛は、松前藩や藩士、そして藩に取り付く和人の商人どもを敬遠し嫌っている・・。
高田屋嘉兵衛の活動の場が蝦夷地に移り其処に足を踏み入れた時、「松前藩の暴政は修羅場の如くである」と嘉兵衛は感じていたのである。 
豊臣と徳川の両方に取り入った歴代藩主は江戸から遠いのをいいことに、アイヌを酷使し、搾り取り、追いつめて、やりたい放題をやっていた。 
藩は、蝦夷地沿岸の各所に漁場を設け、本土からやってきた商人らを手足にし、アイヌたちにニシンやサケや昆布をとらせて「動物以下に扱って搾りとった」、「藩は、その商人たちに寄生し、かれらから運上金(税金)をとるだけで暮らしている」・・と嘉兵衛は嘆いた。

更に彼は、松前藩のアイヌ統治の手口を見たのである・・、
アイヌには和語の使用も学習も禁じ、穀物類の栽培も禁じたし、和人が種子を持ち込むことも厳禁した。 蓑も笠も草鞋も用いさせなかったし、道路の一本作らせなかった。
藩の狙いは、アイヌを原始狩猟時代の生産様式の段階に閉じ籠めてき、その方が搾取には都合がよかったのである。

嘉兵衛は、そんな藩を敬遠しながらも幕府とは常に接触をもち、航海商圏を北方領土や樺太にまで広げていくのである。 
こんな時期にロシア人との人質事件が起きた・・、 
彼は函館の町を興しながら、ロシア人達と人質を取った取られた、返せ返さないの難しい交渉事、国の争いを1人の外交官として人間性を発揮し解決していく。 そして最後には松前藩、幕府を説得する。
高田屋嘉兵衛は北海道、千島の漁場を開拓して得た利益を函館の開発に投入した。 
函館の歴史を語るには欠かせない人物として、今も市民の間では名高い・・。


因みに、昨今は北の方角(北海道)は冴えないと言われる。 
北方領土返還、北海道拓殖銀行の倒産、それに北朝鮮絡みもあり北海道経済といえば平成不況の代表のようなものといわれるが・・、
今その函館は如何であろうか・・??。
函館の昭和期は100万ドルの夜景、特異な町並み、名物・函館朝市場等々・北海道観光の拠点で人、人、人の大混雑であり、中高年団体や修学旅行の生徒ごった返しの時代であった。 その函館は、今現在も変わることはない・・!!。


それに対して今の「松前」である・、
松前の本拠は無論、往時の松前藩で現在の松前郡松前町である。 
当時、函館とは地理的にはほぼ同じ条件下にあった筈であるが・・、今の松前は江戸期の豪勢な面影は全く無く、死に体になってしまっている。 
これはもしかしたら「アイヌの怨念」によるものか・・??。 
松前のJRローカル線は廃止され、菱形の北海道のしっぽの先とも言われて恐ろしく不便な土地柄になってしまった。 
尤も、本州とは最短の距離に有って、いざアイヌ軍勢に逆襲されても津軽海峡を一っ漕ぎで逃げ帰れるから、というのが立地の理由もあったらしいが・・?、 その通り、幕末の函館戦争においては土方軍勢に追い立てられ本州へ逃げ帰っているのである。


昭和33(1958)年、函館開港100周年の記念事業として函館山のゆるやかな斜面である「高田屋通り」のグリーンベルト宝来町の一角に4m程の彼の銅像が建てられた。 
函館出身の彫刻家・梁川剛一氏の製作のよるもので地元の絵葉書にもなっているとか・・。銅像としては東京・皇居前広場の「楠公像」(楠木正成)、土佐・桂浜の坂本竜馬像と共に日本三大像の一つとされる・・。
尚、嘉兵衛の死後から6年後、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落している。


2004・12月、函館市は戸井町・恵山町・椴法華村・南茅部町と合併し、新たな函館市が発足している。


次回は、 「津軽海峡」


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2008.02.25 10:33:07

2008.02.22

From:  orimasa
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日本周遊紀行(86) 亀田半島・「恵山」

余り一般的ではない呼び方だが、渡島半島の南東端、函館市から鹿部町を境界に海に突出した部分を「亀田半島」ともいう。 南は津軽海峡、北は内浦湾、東は太平洋に面する。 その太平洋岸は山肌が海岸線に落ち込む険しい海岸でもある。

南茅部町の長い海岸、その東端のトンネルを抜けると「椴法華村」(とどほっけ)である。
「椴」の字が読めなくて往生したが、椴法華も珍妙な名前である。 やはりアイヌの言に曰くがあり、「トトポケ」の意から成っていて、「岬の裏側」とかいう意味があるという・・、 確かにこの先の向こう側には「恵山岬」が在る。 
亀田半島最東端にあたる「恵山岬」は太平洋に突きだしているため眺めが良く観光地にもなっている。 岬の近くには活火山である恵山(618m)がそびえ、海岸近くには温泉(恵山温泉郷)も湧出する。 

その恵山岬へと向う・・、
国道278は港・部落の入り口辺りで内陸へ向かっているが、我が車は直進する。
椴法華の港、浜町の細い部落道を慎重に進む。 この辺りの海域は津軽海峡を抜けた暖流と千島海流が交わる潮目に近く、海産資源が豊富である。 主な漁獲物はスルメイカ、ホッケ、スケトウダラ、コンブなど水産加工も盛んだという。 

急坂を上りきった処に、サッパリと広がった高台が在った、緑の芝生が眩しい「恵山岬公園」である。 今は人っ子一人いなく些か寂しい場所であるが・・、駐車場から岬灯台までは5分ほど歩かなければならない。
真白の恵山灯台が海岸線に映える、道内でも古く1890年(明治23年)には点灯したという。 日本の灯台50選、100選に選ばれている。 

振り返ると「恵山」の姿が雄雄しく端正で良い、・・が裏側は爆裂火口の地獄谷からから噴煙を激しく噴き上げる活火山である・・。
この恵山は標高618mという普通の低い山だが、シラネアオイ、ムラサキヤシオツツジ、ミネズオウなどの本州では2,000m級の高山でしか見られない高山植物が群生しているといい、山頂からは北は羊蹄山、南は津軽海峡、下北半島の山々を望むことができる。
又、山麓の 「恵山つつじ公園」は、5月下旬から6月上旬に60万本ともいわれるエゾヤマツツジ、サラサドウダンツツジが咲き誇る。

そして、やはり温泉も有る、恵山温泉郷は活火山の恵山の中腹から麓にかけて湧き出す温泉で泉質は硫化物、塩化物が主、酸性度が高くph2.1で濃い塩味がする。 
湯の花が多く発生し、黄褐色をしていて極めて濃厚な温泉のようである・・。
国民温泉保養地に指定されてい、施設は町営の日帰り温泉をはじめ各宿泊施設でも立ち寄り湯があり、300円程度とお手頃のようだ 。

ところで、恵山岬から海岸沿いに恵山町から戸井町へ行こうと思ったが, 「水無浜」というところでで道路が途切れている、やむなく来た道を戻ることになった・・。 
お互いの道は地域界まで来ているのに肝心な所で途切れている・、何とも不便で不合理な事だ・・。 
町村同士(椴法華・恵山)何事か曰く因縁があって折り合いが付かないのか、それとも単なる自然条件のそのためか・・。 いずれにしても、真近に控えている大都市・函館側からはアクセスできないのは如何なものか、主要観光地だけに何とかならないものか・・。尤も、今は「函館市」になっていた・・、大都市函館である、その内、何とかしてくれるのであろうか・・?。

恵山岬から国道278号線へ通じる分岐までは狭い道が続く、この地点から函館まで47kmとあった。
函館から大間へのフエリー便は確認した結果16時20分、現在時刻は14時30分・・、何とか今日中に本州へ渡れそうではある・・。

相変わらず、R278は海岸間近を行く、恵山岬を境に内浦湾から津軽海峡になる。
戸井町へ入り、暫く行くと本州とは最短の岬といわれる「汐首岬」へ来た。 岬のことはともかく、この岬付近から山手の方角を見ると、コンクリート造りの鉄道のアーチ橋らしいのが見えている。 
それはかなり古風なつくりではあるが、巨大なガッシリした造りで一種異様さも感じられる。 当然、ここも合理化の名の下に廃線の憂き目をみたのだなー・・と思っていた・・。ところがこれは廃線ではなくて未完成線である事が判った。

戦時下、戸井町に要塞を建設するといった軍事的な目的で、函館本線の五稜郭から戸井までを結ぶ戸井線として工事建設が開始された。 概ね九割方の路盤が完成していたものの、戦時中ということもあり資材不足のため1943年(昭和18年)に工事を中断してしまう。 終戦を迎え、結局建設は再開されないまま中止となり、その後放置されたままで現在に至っているという。  
戸井は本州とは最短距離にあり、当時現行の青函航路の代替航路として青森県の大間との間に連絡船運行計画があったという。
戦争惨禍の遺構、「見果てぬ夢の跡」にしては、その壮大さゆえに悲惨さを禁じ得ない。


次回は、 函館・「高田屋嘉兵衛」


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2008.02.22 09:52:32

2008.02.21

From:  orimasa

日本周遊紀行(85) 内浦湾岸・「鹿部、南茅部町」

砂原町から観る「駒ケ岳」の勇姿が良い。
北海道・駒ヶ岳周辺は、国定公園に指定された美しい景観で有名であが、ここから観る駒ケ岳は天を指す弧峰で雄雄しい。 
渡島富士ともいうが大沼側から見る湖沼を配した駒ケ岳も優美に映る。

しかし、駒ヶ 岳は今も激しい噴火をしている活火山である。
1640年、寛永の大噴火では山体の上部が爆裂で南と東に相ついで溶岩流を伴なって崩れ落ちた。 南側山麓(七飯方面)では 低い土地、河川を埋めて大沼、小沼と、それらの中に点在する島々ができ今の姿になった。
また東側に(砂原、鹿部方面)崩れ落ちた山の一部は 内浦湾(噴火湾)に達し、大津波を起こした。 
数ある噴火の中でも、この時が最大で大噴火と大津波で死者700名を出す大惨事となったという。
平成に入っても小規模な噴火を繰り返し、近くは平成12年にも数回激しい噴火があった。
今この地点からは風向きにより確認できないが、火口付近では現在でも弱い噴気活動を行なっているはずである。 従って登山、登行は禁止されている。(平成16年末)


火山や火山帯の近くには必ずと云っていいほど良い温泉地が在る。 国道278の海岸沿いにあるのが「鹿部温泉郷」である。 
温泉の町・鹿部でも特にめずらしいのが周期的に地面から噴き出す「鹿部間歇泉」である。 鹿部町の間歇泉は大正13年に温泉を掘っているときに偶然見つかったもので、日本でも大変珍しいといわれる。 
間歇泉は、他に別府や諏訪、鳴子にもあるが世界的にはアメリカのイエローストーン公園の大間歇泉が有名であろう。 
鹿部間欠泉は5〜6分間隔で103度もの熱湯が15mもの高さまで噴出すという。 こちらの間歇泉は公園施設の中にあり入場有料(300円)であるが、ここには足湯もあり脚を浸しながらブワーッ!!と吹き上げるのをのんびり見物できるのがいい・・。

鹿部町の温泉は泉源が30ヶ所以上もあり、ナトリウム・カルシウム-硫黄塩泉が主だが、それぞれ泉質が異なるの特徴をもつ。 適応症は、神経痛、関節痛、うちみ、痔症、リウマチ性疾患、創傷及び火傷、皮膚症などに効果があるという・・。 銭湯は亀の湯、寅の湯があり入浴料350円也。

間欠泉公園から少し行った所の国道沿いに「三味線滝」と言うのが在った。 
高さ30m程の品の良い滝で、見ていてホッとする。 その名前の由来は流れ落ちる音が三味線の音色に似ているからと言われるが、果たしてどうであろう・・。
 

駒ケ岳を望むゆったりした低丘陵地から、海岸際に沿っている国道278(恵山内浦ライン)南茅部町に入る。 
この辺りから風景は一変して、海岸近くまで山稜が迫り、背後の町界部は600m前後の山塊が波打っていて、海洋の町でもあるが山間の町でもある。
南茅部町は内浦湾に面する幅が5〜6kmの細長い町であり、山が迫る狭い海岸線に道路が通り家が並んでいる。 
風光も道内では最も温暖な地域であろうし・・、漁業資源も豊富のようだ。 


この幅の狭い地域に、山襞に沿って幾筋もの急峻な河川が流れ下る。
この川筋の段丘に大昔、人々が何千年もの間生活していた・・、長さ30キロメートル余りの海岸線には、ほぼ4キロメートルおきに縄文遺跡が連なって発見されているという・・。
一般に、縄文期とは早期から晩期までの凡そ1万年から2千年前あたりを云うが、この地区一帯には、それらの時代の殆どの期間に人々が在住し生活していたとみられる。 
その考古学上の遺跡調査は1973年に始まり28年間に及んだといい、その規模は町内に88ヶ所、面積にして150万平方m、出土品総数は350万点にも達するとのこと。 

南茅部地区は縄文人達による一大国家が形成されていた事になり、これは青森の「三内円山縄文人」の遺跡を凌ぐものとも云われる。
或いは青森などと盛んに交流等も行はれていたのでは・・??。 南茅部町は古代の香りのするロマンの町であった・・!!。


この南茅部町をはじめこれから訪れる椴法華村、恵山町、戸井町そして函館市による広範な地域の合併の話があるようで・・、しかも既に各市町村は合併協議の合意を得て平成16年12月には新しい「函館市」になることが決定しているという。

ところで道内の行くとこ、行くとこ合併協議がもちきりである。
合併についてはスムースに行われる所もあれば、中には地域の止むに止まれぬ事情、個々の議員さんの利害得失等で見送り解散になるケースも少なくないようである。 
小生が「日本一周の旅」の最中でも着々刻々と合併の話が進行中であり、又、合併が済んで新しい市町村名に出くわし頭を悩ますこともあるが・・、この記録表示については出来るだけ従来の名称で記載しようと勤めている・・。

因みに、全国的にみて平成の大合併が始まる以前の1999年(平成11年)3月頃までは3200余の市町村であった。 合併が進んで以来、2004年11月現在では2400程度に減少したようだが、更に進行中で2005年(平成17年)にかけては合併のピークを迎え、平成の大合併の第一弾が終了した2006年(平成18年)4月には1800程度にまで減少したという。
つまり全国の市町村が、当初より4割以上も減少したことになる。

因みに合併によって財政支援が受けられる「合併特措法」なるものの有効期限は2005・3月迄で、それ以降の恩典は無くなっている。 従って、この期日以降の合併の動きは鈍くなっているが、これ以降も都道府県に合併推進勧告の勧告権があることから、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末に向けては多少なりとも合併の動きが進むことが予想されるという。 
全国の首長の皆さん、お国のために、わが地域のために奮闘努力してくださーい・・!!
 

次回は、 「椴法華・恵山」


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2008.02.21 10:44:59

2008.02.20

From:  orimasa

日本周遊紀行(84) 噴火湾・「八雲、森町」

八雲町へ入った・・。
農業が盛んな町のようで、丘陵地は畑と牧場に色分けされている。牧場は、主に牛のようで畜産、酪農か主体であろう・・。 
以前、カミさんと訪れたとき、KFCの農場・フアームを見物したはずだが・・??、あの時は確か「KFCプランテーション・ハーベスター八雲」とかいう名称だったと思う。 
名が示すとおりケンタッキーフライドチキン(KFC)の実験農場という形態を採ったレストランを中心にした施設だった。 国道5号線から内陸方面に入ると、とても雰囲気の良い並木道が続いていたはずなのだが、それがない・・?。
事実KFCは実験農場としての役割は終了したとして、別の経営母体に売却したといわれるが・・。


ところで、北海道は元々はアイヌの住む地で蝦夷地といわれた。 
江戸期に松前藩が置かれて、これがきっかけで各地に和人が住み着くようになった。 
当時はアイヌとの交易や外国に対する北方警備が主な任務で、所謂北海道の開拓や開発とは縁遠いものだった。
幕末になって内地国内では大きな時代のウネリ・変革がもたれされた・・、明治維新である。
明治期、版籍奉還、廃藩置県、そして身分制度の変化等に伴なって武士社会は崩壊し特に下級武士はいきなり平民に格下げされた、そして生活面でも苦境に陥った。 
明治中央政府は、これら身分制度によって生じた旧武士達の救済を兼ねて、未開地であった広大な蝦夷地の開拓、開発政策に乗り出したのである。 
先ず、蝦夷地に開拓使(黒田清隆等の特使又は長官、判官)を置き、指令による派遣(※屯田兵)や自由意思による移民政策を始め、併せて、北方の防衛(主にロシア)をも兼ねたものだった。


このような状況の中、この八雲町は徳川御三家の一つ「尾張藩」の旧臣達の入植により開祖、開発が行はれたのであった。 
生活に困窮する元武士たちは、旧臣授産(旧臣達の失業者または貧困者に、仕事を与え、生計をたすけること)の道を開こうと藩の支持、協力を仰いで新天地を目指した。
この地に150万坪の下付を受け、藩土を移住させて拓いたのが「徳川農場」の始まりであり、この町の団体移民の最初であった。 
さらに移住者が増え、1881年(明治14年)には47戸、260余名だったという。
農場では牧畜も手がけ、混合農業を行い、加えて味噌、醤油の醸造にも着手している。

ちなみに八雲町の名付親は旧尾張藩主「徳川慶勝卿」である。 
古事記の「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」(神が天井より天下へ降臨する時に八重の雲が湧き上がり、地上は楽園になろう)を引用したもの。 
この歌は出雲開祖の神:スサノオノミコトが出雲の地に宮(出雲大社)を作ったときに詠んだという。 
出雲地方(島根県)に八雲村がある、この八雲町も同様の意味を込めて命名したという・・。

北海道を旅行すると土産店に「熊の木彫り」の彫刻が売られている。この熊の彫り物は、ここ八雲町が発祥といわれる。 
同町内にある徳川牧場主・徳川義親が欧州旅行の際、スイスで熊をモデルにした木彫りの民芸品が売られているのを見付け、これを八雲農民の副業に奨励してその生活向上に役立たせようと考え、見本となる木彫り熊を買い求めて帰国したといわれる。 
そして、直後に八雲を訪れた義親はこれらの見本を農民に示し、出来上がった製品はすべて買い上げることとして制作を試みるよう奨励したのであった。


2005年10月、道内でも有数の酪農地帯である八雲町と、日本海に面した往時はニシンの千石場所として栄えた熊石町が合併し、新しい八雲町が誕生している。
太平洋と日本海の両太洋をを抱く珍しい地域になった。     


森町に入った・・、山中に「濁川温泉」があり、そこに温泉利用した地熱発電所があるという。
この発電所は10万世帯分の発電能力を持つといい、地下2,000メートルの熱水や蒸気を利用ししているが、しかしながら、地熱発電は火力に比べ採算が合わないといわれる。 
道内の地熱・熱水地帯は国立公園内がほとんどで、新規の開発にも制限があるといわれ、ここが北海道では最初で最後であるとか・・。
思うに、日本は火の国・火山の国である。無尽蔵にあるこのエネルギー資源、排出ガスを伴わない環境に優しい、このエネルギーを有効に利用できないものか・・??。
この地熱を利用した農家では、トマトや葉菜の等、地熱によるハウス栽培が多くあるという。

森町市街地手前に「鷲の木」という海岸がある。 
時は幕末・・、慶応4年(明治元年・1868年)、江戸城が開放されて戊辰戦争も幕府軍の敗戦が決定的となり、戦後処理として西軍は榎本武揚が所持する軍艦を接収しようとした。 これをきらった榎本幕府軍2000名が、「開陽丸」を旗艦とする幕府艦隊8隻をしきいて江戸を脱出出港してしまう。 
途中、仙台に立ち寄った後、10月20日に、この地「鷲の木」に上陸しているのである。

函館戦争の始まりであった・・、10月26日に榎本幕府軍は函館・五稜郭を占拠し、松前城・江差を奪取して渡島半島の蝦夷地を手中にして、一時は共和国を建国した。 
その後は開陽丸の不慮の沈没事故もあり、西軍は周辺で激戦を繰り返しながら函館周辺を制圧し、土方歳三ら多数の戦死者を出しながら、翌年5月17日榎本武揚は降伏する。
五稜郭が明け渡され、函館戦争を最後に戊辰戦争は終結した。
ちなみに新撰組(2004年、NHK大河ドラマ放映)副隊長で、榎本軍の陸軍参謀であった土方は自ら死地へ出陣している。
函館戦争で戦死した榎本軍幹部は、「土方歳三」たった一人であったという。


森町はモリマチと呼ぶ、道内で「町」は「ちょう」と呼ぶのが殆どであり、「マチ」と呼ぶのはここだけらしい。
静岡県に、あの「森の石松」の出身地である森町があるが、ここも「モリマチ」と呼ぶ。


国道5号線をこのまま進むと、大沼から函館へ出る。・・
本来、一般の観光客は幹線(国道、鉄道)が走る森から函館へ向うのが普通であろう・・。 
小生の今回の旅の目的は沿岸外周が目的なので、当然国道278方面へ向かう。
鷲の木辺りから海岸沿いの市街を行くと、左側真近に函館本線の「森」駅が在った。 
「海岸なのに、森とはこれいかに・・?」 


次回は、 鹿部、南茅部町


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2008.02.20 09:33:07

2008.02.19

From:  orimasa

日本周遊紀行(83) 噴火湾・「長万部」

「長万部」・・?、 「オシャマンベ」と呼ぶ。
幼少の頃、親父に新聞記事か何かを見て、「この字なんて呼ぶの・?」、「オシャマンベだよ、北海道の地名で、たぶんアイヌ語だろう・・」、こんな会話を記憶している。 
長万部は、蝦夷・北海道らしいアイヌ語で面白い呼名だなー・・と、かねがね思っていた・・が当たらずとも遠からずであった。

「長万部」は昔,長万部川の河口付近にヒラメが豊富に生息していたため,アイヌ語で「オ・シャマンベ」(ヒラメのいる所)と呼んでいたもの・・。 これをもって元治元年,箱館奉行が「長万部」と名付けることを命じたらしい・・。  
長万部は「ひらめ」かー・・!!。

長万部は昔から交通の要衝として栄えてきた。
渡島半島の付け根に在り、日本海側の漁場に通じる交通上の要(かなめ)であり、ここから往来するのが最短で便利であった。 
江戸後期〜明治初期にかけては黒松内道も完成し、鰊漁場として人々を集めて日本海の寿都(すっつ)へ向け多くの人々が歩いてたという。  
当時長万部を巡視に訪れた松浦武四郎(北海道の父・北海道の名付親)の記録にも「山越内は大変な人で、人別改めで日によっては1万人にもおよび、長万部までの海浜は一条の蟻道のごとく黒くなって絶え間なく人が行きあった」と書かれたほどだという。

現在は、道路が小生が通ってきた国道37号と内陸道の国道5号、鉄道が室蘭本線と内陸の函館本線が函館を起点として、この長万部で分岐している。
更に道央自動車道は平成9年に、この長万部を起点として開通している。


長万部町中心街から北西方向の奥約20kmの地点、町民の 「ふるさとの山」、道内岳人にも人気のある長万部岳(972m)が聳える。 東斜面は急峻で山形もよく、高山の風格があるといわれるが・・、山のことではない・・、温泉のことである。

この長万部岳の東麓・二股川の上流に北海道でも有名な秘湯の一つでもあ「二股ラジウム温泉」がある。温泉の泉質は特異で、炭酸カルシウムが大量に含まれ、それによって巨大な石灰華(石灰の湯の花)ができている。 
この石灰華の上に明治時代に開かれという古びた湯治宿がある。 一軒宿の温泉で周囲は深い原生林に囲まれ、今でも重い病気の治療のために熱心に湯治する人がいるという・・。

湧出する温泉は純度の高い鉱泉水で炭酸カルシウムが大量に含まれ、その沈殿物である温泉湯華によって雄大な大積層が築かれ、巨大なドームが形成されている。 
この種の温泉湯華は世界中でも珍しく、アメリカの国立イエローストン公園のマンモス温泉郡と二股温泉の二ヶ所のみと云われており、大正9年に東京大学の脇水教授によって初めて科学的に調査研究され、実証されたといいう。
「石灰華」は温泉水に含まれた炭酸石灰成分が湧出によって温度、圧力が下がり沈殿したものといわれ、ドームは非常に巨大で長さ400m、幅200m、厚さ25mもあるという。 

濃度の濃い温泉の特質として、浴室はいたるところが赤褐色になっていて手すりの鉄パイプや桶まで湯華がつき、浴槽にも分厚く湯華がついていると・・。 温泉の色も濃い褐色を呈し、タオルなどもすぐに茶色に染まってしまうとか・・。
源泉の温度は50度であるが、浴槽温は温めなので湯治向きには最適といえよう・・。
泉質は含ラジウム炭酸カルシウム泉・・、結晶の湯の華は各地へ持ち込んで、温泉として利用されているともいう・・。


長万部からの国道5号は、「噴火湾」を左に見ながら気持ち良い直線道路である。しかし交通の要所だてあって車の量はさすがに多い、よそ見油断はならぬ・・!、それでも思わず、この海を唄った鳥羽一郎の「北斗船」を口ずさむ。

『北斗船』  鳥羽一郎 唄
みぞれまじりの しぶきを頭から   派手に飛散る 鱗を花にみて
浴びて乗り出す 噴火湾        波の谷間で 花見酒
海は荒れても 行かねばならぬ    北の魚師も 黄昏どきは
今年六十の お袋さんに        柄に合わない 人恋しさが
ハワイ旅行が させたくて       ゴムの軍手を つきぬける

内浦湾を別名「噴火湾」というのは、北に有珠山、南にこれから向かう大沼・駒ケ岳、亀田半島先端の恵山の火山群を要しているからとか・・。 
明治時代に当地を訪れた英国人船長が、湾を取り囲む北海道駒ヶ岳や有珠山などの火山を見て「これはVolcano Bay=噴火湾だ」と語ったことに由来するといわれる。


次回は、 「八雲町」


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2008.02.19 09:44:02

2008.02.18

From:  orimasa

日本周遊紀行(82) 伊達・・U「円空と蝦夷」

思うに・・、小生、北国の東北・北海道を巡ってきて気が付くのは、北国はやはり太古の大自然が残されているが、文化的な香りがする土壌はやや西日本に軍配が上がりそう気がするのである・・??。
実を言うと今時は既に西日本の周遊を終えていて、あちらの方は自然というより歴史、文化の色彩が多いのが印象的、特徴的であった。 特に著名な神社、仏閣、墓稜、歴史的遺産などの歴史を刻む建築物が大いに目を引いたのものであった。 
北海道にもアイヌ文化、蝦夷文化をはじめ歴史的な寺社など、又、古くは縄文期の遺跡等・・存在しているが、注目度としては西方の歴史の広さや深さには及ばないであろう・・。  
 

そうした中でも北海道へは何人かの文化人が渡来してきて、それなりの影響を残している。
幕府の役人、探検家として渡来した文化人は伊能忠敬、間宮林蔵、近藤重蔵、松浦武四郎、最上徳内など・・、
商人、船乗りなど商行為のため渡来したのは高田屋嘉平衛、銭屋五兵衛など・・、又、文芸、絵画、書道、評論などで渡来した文化人は池野大雅、菅江真澄、大原呑響などとされている。
そして「僧侶」として布教のため渡来したのは、「円空」をはじめ木食、文翁、壮海、秀暁など各上人たちがいるが・・。

お節介のようだが、蝦夷・北海道文化や近代史に興味のある御仁は、これら先駆者といわれる人々のことをより深く調べ・研究することによって、より一層北海道への理解が深まるのではとも思われる・・。


そんな中、美濃(岐阜県)出身の「円空」が北海道に渡ったのは、江戸初期の寛文5年(1665)であった。 
鉈(なた)一丁を下げての遊行僧・円空は、北辺の地・蝦夷地でも意欲的に作仏活動を続けていて、現代から300年の風雪を経てもなお円空仏は今も人々の信仰を集めているという。

円空上人は寛永9年(1632年)、美濃国(現岐阜県)生まれ、早くから小僧として仏門に入り、やがて寺院を出て窟ごもりや山岳修行をするようになる。 
そして美濃国を拠点としながらも修行を重るため全国を行脚し、各地の寺院の住職や民衆たちと交流を深め、随所で「鉈作り」や「木っぱ仏」と呼ばれる仏像を彫刻し、残している。    
円空は、悩み苦しむ人には菩薩像を、病に苦しむ人には薬師像を、災害に苦しむ人には不動明王像を、干ばつに苦しむ人には竜王像を、限りある命を救うために阿弥陀像などを分別しながら刻み歩いたようである。
その足跡は、美濃・飛騨・近隣の愛知・滋賀・長野などにとどまらず、近畿・関東・東北そして北海道にまで及んでいる。 
元禄8年(1695年)、故郷で64歳で亡くなるまでにその数は何と「12万体」に及んだともいわれ、晩年の作は他の追随を許さない境地に達し、日本の彫刻史上確固たる地位を占めているといわれる・・。

寛文6年(1663年)に流浪の身を咎められ、津軽藩の弘前城下からも追われて松前に渡ったことは知られてる。 
その後、道南の渡島半島の各地を廻り、広尾や釧路の近くに至るまで多くの仏像を彫っている。
円空はその生涯の多くの時間を旅とその途上での仏像の制作に費やした人のようだが、なかでも30代半ばの蝦夷地(北海道)への困難な旅の目的は、有珠善光寺や太田権現という道南の古刹霊場に触れる事だったようで、彫り上げたその殆どの仏像は洞窟の中などに祀られているという。

因みに、「大田権現」は渡島半島西部・瀬棚町大成区大田にある日本海に面した社宮で、古く平安期の頃から祭られていて現在は「太田神社」とも呼ばれている。 
参道は山道で急傾斜の崖を登り、更に、百数十段の急な石段を鎖・ロープにつかまって登る難所で、鉄ばしごやロープを伝う急な山道や絶壁を進むこと約40分、拝殿に「猿田彦命」が祀られている。 
太田山(485m)全体をご神体とする山岳信仰の場でもあり本殿は、太田湾を一望する山頂直下の切り立ったがけの岩穴にある。 当初は庶民が地蔵尊を祀ったのが始まりらしく、その後「円空」等によって観音像が祀られた円空仏堂もあるという。 航海の守り神、霊神の加護として信仰されている・・。

円空が釧路まで足を延ばしたかは定かではないらしいが、釧路の厳島神社に円空の彫った観音仏が祀ってあり、日本で最も北東の地にある円空仏であるという。
円空が渡った江戸の初期には、松前藩によるアイヌに対する支配が浸透しつつあった時期だが、当時、円空の彫った観音像をアイヌの人たちが「アカンカムイ」として拝んでいたといわれる。 
円空は、アイヌの人たちの居住域をも旅しているので、アイヌの世話になることも多く、円空が彫った像がアイヌのカムイ(神)として祀られ、拝まれたこともあったと想像できるのである。

円空が仏像に「くすりのたけごんげん」などと銘打ったことについて・・、
円空が仏を彫るにあたって、背銘にそれぞれ「いわうのたけのごんげん」、「くすりのたけごんげん」、「たろまえごんげん」などと記されてあるという。
当時は蝦夷地といえど、遊行者でも自由に旅をすることはできなかった、そこで背銘にその名を刻し、仏が安置されるべき場所を書いたともいわれる。
因みに、「いわうのたけ・・」は豊浦町礼文華の「いわう岳権現」(岩屋観音)、「たろまえ・・」とは苫小牧市高岳の「樽前岳権現」(樽前神社)であり、「うすおくのいん小島」は有珠善光寺・奥の院小島(洞爺湖中島)であり・・、
そして「くすりのたの・・」とは釧路市米町「久寿里岳権現」(厳島神社:アイヌの聖地といわれる)であることは明白であるという・・。
今の釧路・厳島神社は元々は阿寒大神、つまり厳島神社の原型といわれる円空仏がまつられていたという。 
釧路市史によると、『 阿寒大神は、往古よりアイヌ人が「アカンカムイ」(アイヌの神)として祭祀してあったものと伝えられ、むかしは漁船が入港する時、社殿が見える所までくると必ず船を幾度か廻し豊漁と航海の安全を祈念し、また感謝して帰港したものといわれる・』と記している。

阿寒大神(アカンカムイ)は、「阿寒岳を霊峰とする山神さまでアイヌの神」とされているが、円空の「くすりのたけごんげん」が、釧路=久寿里(くすり)地方の霊峰の神に捧げられたことでアイヌにも深く受容されたという・・。後に厳島神社が勧進されて海の神としても信奉されている・・。 
釧路地方のアイヌは松前藩にとっては大事な漁業労働者であり、彼らはアカンカムイを祭祀するが、和人の弁天(厳島神)や稲荷神などの海や漁業の神として、併せて祭祀していたという。

厳島神社は無論、芸州・宮島の厳島神社のことで「海の神」といわれ、航海安全と豊漁祈願のために本来、和人が分霊、勧請したものである。 
現在の釧路・厳島神社の祭神は宗像三神の市杵島姫大神(イチキシマヒメ)であるが、相殿として阿寒大神(アイヌの神)をはじめ、他に稲荷、金比羅などが祀ってある。


久寿里(くすり)とは「釧路」の語源となったもので、原名アイヌ語のクシル、クシ「越える」 ル「路」からなり、「ここより各地へ道が通じていった」の意味とされる。


次回は、 「長万部」


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2008.02.18 10:37:48

2008.02.15

From:  orimasa

日本周遊紀行(82) 伊達市・・「伊達家、有珠善光寺」

北海道の伊達市は道内でも最も温暖な地といわれ、「北の湘南」とも呼ばれる。
伊達市の「伊達」は、あの奥州の勇・伊達家から由来し、伊達邦成(くにしげ)がこの地を開拓したことから付けられたものという。

「伊達」を開いた伊達邦成(仙台藩一門、宮城・亘理地方)は伊達家の15代目当主である。 邦成は亘理(わたり: 仙台より南方25kmの地点、仙台城の南の守備要の位置にある、現・亘理町)の殿様であったが、維新の版籍奉還や廃藩置県の布令で新しい世の中になり、大名たちの土地は国の物となった。 
また、家来の平武士達は平民となり、一部の人々は生活が困難になった。 その為、家老の田村顕允(あきまさ)を筆頭に北海道で新しい暮らしをしようと考え、 明治3年3月、邦成は大工・人夫などあわせて250人々が先ず室蘭港に上陸した。 
その後、モンベツ(現、伊達市:JR駅名は伊達紋別)へ行って荒れた土地に入り、木を切り倒し、笹やぶを切り開いて粗末な小屋を建てて生活を始めた。 
その後、移住は明治14年まで9回にわたり行われ、延べ2700人余りが入植したという。

因みに、伊達を開拓した人たちは、国からの募集移民とは違い、食べ物・交通費・農具など自前でお金を出し合い、開拓したともいわれる。
温暖な地(平均気温10度上)の伊達は、道内で早くも米作りが盛んに行われ、又,内浦湾(噴火湾)では海面が黒くなるほど魚類が豊富であったという。
これらが幸いして伊達家の人々は次第に、この地に土着していった。

ところで、昨今同じ道内で、石炭の街として有名であった「夕張市」が財政破綻して、四苦八苦している様子が報じられ、話題にもなっている。
現在、我が国自体の財政がきわめて厳しい状況にあるが、(国の借金は平成17年度で凡そ500兆円:国債発行額、国民総員の一人あたり400万円になる。主要先進国でも最悪国といわれる)危機的な財政状況にあるのは地方財政も例外ではない・・、特に、財政基盤の弱い地方自治体の「家計」は火の車になっているという。

地方財政とは、都道府県・市町村の財政の総称で、特に財政力の弱い市町村が多いといわれる・・。
こんな中、当地、「伊達市」は極めて財政は健全で、毎年の経常収支は道内の市町村でも筆頭クラスの黒字を計上していると言われる。
伊達市は全国で初めてのゴミの有料化を実施したことから、環境への取り組みにも優れている市として知られ、高齢者や障害者手当てを積極的に受け入れ、新しい福祉の考え方を模索・実践している(市民参加型の地方行政モデル)。
又、2005年には、小泉内閣の推進する構造改革の一環である都市再生のモデル都市としても紹介されてる。

国道37号と道央道伊達ICを結ぶ途中に「伊達開拓記念館」がある。
開祖・邦成公ゆかりの家、屋敷、史料、美術品等の貴重の品々が展示・所蔵してあり、周辺は緑豊かな広い庭園で、四季折々の趣が有り市民の憩いの場所になっている。

伊達市は、伊達・仙台藩の藩祖:伊達政宗の血脈を汲む土地柄であるが、正宗は御存じ戦国の雄として名を成し、「秀吉・家康を翻弄した男」といわれる。
その伊達政宗の国家経営が伊達家及び諸侯に浸透し、幕藩体制においても最優良藩であったといわれる。
各種事業での藩興しの傍ら、仙台藩は表高62万石に対し、実高100万石を越える米の生産量を確保したともいわれる、一説には江戸中期には300万石を超えていたとも・・。

伊達藩を祖としている伊達市は、脈々とその手腕を受け継いでいるのであろう・・。
合併特例法に基づく市町村合併で、伊達市は山間部の大滝村と合併することが決定している(壮瞥町を間に挟むため飛地合併となる)。 
当初 1市1町1村(伊達市・壮瞥町・大滝村)が合併の協議会を開催していたが、2004年12月に一旦解散している。 その後、 1市1村(伊達市・大滝村)で協議会を再開し、2005年3月に合意・調印され、2006年3月に実施されるという。 
飛地の合併というのは行政区域がバラバラで、行政運営や都市計画上など、やり難い面も多いと思うが・・?。 
因みに、道内では昨日通過した「日高町」が同様の飛地合併になっている。 
2006年3月に新設合併される旧日高町・門別町の2町で新たに「日高町」となる、間には、平取町が入っている。 尚、ほぼ同時期に後から誕生する「新ひだか町」(静内町と三石町とが合併)とは関係ないらしい。


伊達の市街地を抜けると広々とした見通しの良い丘陵地が広がっている。 遠くの山並みは有珠山であろうか・・・、手前を傍若無人に道央自動車道が横切っていて景観を損なっているが・・。
室蘭本線もすぐ横を走っていて、この路線を跨いだところが「有珠」の駅前だった。 
有珠は、こじんまりした町並みで、駅舎はチョット洒落た洋風がかった左右対称の建物であった。ただ、駅前は人の姿は見られず閑散としていた。

有珠・ウスはアイヌ語の「ウシ」(湾)からでたものらしい、そう言えばすぐ近くに有珠湾の入り江があって、湾を取り囲むように町並みが立ち並んでいるようである。
国道をこのまま進めると、「有珠・善光寺」という寺院があるらしく、長野の白馬に別宅を持つ小生にとって「善光寺」というのは長野の「善光寺」を思い起こし、懐かしい名前なのでチョット寄り道してみた。

茅ぶき寄せ棟造りの本堂をはじめ、重厚な建物が江戸時代のたたずまいを伝えている。
近年を含め江戸期の二度の有珠山噴火からも難を逃れてほぼ原型をとどめているという。その本堂伽藍もさることながら、庭園の素晴らしさ広大さに舌を巻く・・。

「有珠善光寺」は大洋・噴火湾に面して建っている。
当寺院は、徳川幕府から「蝦夷三官寺」(厚岸町の国泰寺、様似町の等じゅ院)なる指定をされているという。 
根本堂の歴史は古く平安初期、比叡山の僧・慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し開基したと伝えられている。 

江戸の芝・増上寺の末寺で総本山は京都・知恩院ということで浄土宗のお寺であり、長野の善光寺とは直接の関係はなさそうである。 
因みに長野の善光寺は、仏教伝来(538年)とほぼ同時に創建されたと言われる由緒あるお寺で、従って仏教が各宗派に分かれる以前のものであり、宗派は持たない・・。
つまり、宗派における付属の寺や末寺は無かったのである・・。
 
  
5万uにも及ぶという庭園は、古くから桜の名所として知られ、昭和初め頃までは有珠駅前から寺まで、数キロにわたって桜並木が続いていたらしい。(その多くは戦後の混乱期に燃料として伐採されてしまったらしい) 
花見は庶民の数少ない娯楽のひとつで、季節になると「桜列車」も出るほどの賑わいだったという。もちろん、今も境内に咲く桜を見に多くの観光客が足を運ぶが・・。

境内にある「有珠郷土館」には、釈迦如来大仏(道指定文化財)、円空上人の鉈作りの観音菩薩(同)などの文化財・宝物が数多く展示されている。
その「円空上人」は、全国各地を放浪して数多くの鉈作りの仏像を残し、日本彫刻史上に特異な地位を築いた。(登別・地獄谷の項で述べる) 
円空は、善光寺を再興し本尊ほか一体を奉納し、また傍らの小祠にも三体を奉納したといわれる。
その前後に有珠山に登り、眼下の洞爺湖に浮かぶ「中島」を善光寺・奥の院と定め、あるいは湖中の中島(現在の観音島)に渡ったあと、善光寺・円空の彫像を納めたらしい・・。

次回は、 伊達・・U「円空と蝦夷」



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2008.02.15 10:42:58

2008.02.14

From:  orimasa

日本周遊紀行(81) 白老・・U「アイヌと文字」

前回に引続いてアイヌ文化の一端であるが・・、「アイヌは文字を持たなかった・・!!」、 その意味合いで好例がある・・、
「ユーカラ」という言語、アイヌ語をご存知の方も多いと思われるが、ユーカラ(Yukar)とは「物真似をすると」いう意味で、アイヌに伝承・口承されてきた叙事詩といわれる物語文学の一つである。
「 孤児として育った少年が両親の仇を討つ物語や許嫁(いいなずけ)の奪還のため敵と戦う・・、」という戦いの数々の物語で広義には主に女性や自然神(カムイ)を主人公とする叙事詩のことである・・。
アイヌの人々が文字を持たないアイヌ語によって、自然の神々の神話や英雄の伝説を口伝えの言葉による豊かな表現で語り伝えてきた。 
しかし、アイヌ語・アイヌ文化の衰退とともに、「ユーカラ」をはじめとする口承文芸の語り手も次第に少なくなっていったという。 ただ近年アイヌ語・アイヌ文化の復興運動の中で、ユーカラをはじめとする口承文芸を習得しようとする気運もたかまり、研究や学問によって新しい「語り手」も育ってきているという。

「ユーカラ」を和人世界に紹介したのは言語・国語学者の金田一京助氏であり、そして、最大の伝承者はアイヌの「金成まつ」である。 
金成まつは、若い頃習い覚えた「ローマ字」で妹と永年手紙のやりとりをしており、日本語も堪能であったという。 
「金成まつ」がユーカラを書きだすのは、先ず前人の書いたものを見習い、暗誦しているものを思いつくまま自由に書き流したもので、ローマ字を使って自分の言葉を記録したものである。 これに、金田一氏が「訳と注」を付けて出版したものである。
それは、15年以上かけ70余冊、実に1万7千ページに及ぶ堂々たるアイヌ文学の巨冊が出来上がったのである。
金成まつはアイヌ名・イメカヌといい、執筆したのは晩年の54歳から70歳の期間であったといわれる。

彼女はクリスチャンで日高・平取の教会に勤務し、その後、35歳の頃から旭川郊外の近文(ちかぶみ:地名)で伝道に従事しながら、大正7年にアイヌ語の調査に来た金田一氏と出会っている。 
氏は、金成まつや妹の家族と親交をもちながら共同作業のような形で長期にわたり研究、執筆を続け、遂にノート17、000ページにおよぶ大著を完成するに至る。
金田一京助氏は大量のアイヌ文学記録化の功績が認められ、紫綬褒章を下賜されている。同時に、「ユーカラ」は無形文化財に指定されている。
金田一氏が訳・注を付けて全7巻の「金成まつ・ユーカラ集」が三省堂から出版されている。


先にも記したが、アイヌの民族文化に「イヨマンテ」というのが有る。熊の霊送りやお祝いのときに踊るもので神々への感謝の意味が込められている。 
熊猟で成獣を仕留めた際に残された仔熊を人里へ連れ帰り、1〜2年飼育した後、盛大な儀式を執り行って親元である神の国に「送る」儀式である。 この際「送る」とは、実際には「殺す」という行為である。 
狩猟を主な生業の一つとしていたアイヌにとって熊は最も位の高い神の一つであり、熊の霊送り=イヨマンテはアイヌ民族の最大の儀式であると同時に、アイヌ文化の核心でもあるという。 

江戸期の頃までは、全道の各地に散在するコタンで盛大な「イヨマンテ」が行われていた。
だが、明治以降の同化政策によってアイヌの生活文化が急激な変容を受け、言語をはじ多くの習俗が現実の生活から遊離していったように、年間の最大の儀式であったイヨマンテも次第に行われることが少なくなってきたという。

白老町であるが・・、
他の地方に比べ白老は「地の利」に恵まれており、観光客の人々に対し有志らがアイヌ民族の解説をしたり伝統芸能を披露したりして、それら文化的観光事業の一環として時折、「イヨマンテ」が古来通りに行われていたといわれる。 
しかし、戦後に至ると、こうした儀式そのものも殆ど行われなくなり、以前のようにコタンをあげて実施していたイヨマンテは白老町でも昭和29年の町制施行記念の行事として盛大に行われたのが最後であったという。
「イヨマンテ」は国の重要無形民族文化財に指定されている。

ところでアイヌの食文化の中での排泄行為、つまり「トイレ」の事についてであるが・・、
昔のアイヌ文化には便所は無く、一定の場所で用を足すという習慣はなかったという。 
アイヌ語で便所のことを「アシンル(asin-ru)」といい、「新しい路」という意味があるそうで、森の中の方々で用を済ませたという。 
しかし、近年になって倉の脇にあるゴミ捨場のそば等一定の場所で「用を済ませる」、つまり便所としての用途が定着したようで、それらの資料も残っているという。 
この便所については、もう一つの違う使われ方がされたとも伝えられる。 それは熊のお仕置き場としてで・・、熊は神としてアイヌの間では大事に扱われてきたが、時として人を襲い噛み殺した場合など首をはねて、この便所脇に首を吊るし「人間を殺すと汚物をぶっかけるぞ」という、他の熊への見せしめだったそうである・・。


『イヨマンテの夜』 菊田一夫作詞 古関裕而作曲 久雄伊藤唄 昭和24年(1949年)

アホイヤァーーーーー 「イヨマンテ」  
(1) 熊祭(イヨマンテ) 燃えろかがり火       (2) 熊祭(イヨマンテ) 燃えろひと夜を       
ああ 満月よ                    ああ わが胸に
今宵 熊祭 踊ろう メノコよ          今宵 熊祭 可愛い メノコよ
タムタム 太鼓が鳴る              部落の 掟(オキテ)破り
熱き唇(クチビル) われに寄せてよ        熱き吐息を われに与えよ

ああ ーーーー ーーーー ーーーー     ああ ーーーー ーーーー ーーーー
あああ ーーー イヨマンテ           あああ ーーー イヨマンテ



次回は、 仙台(伊達)ゆかりの「伊達市」(登別は温泉・観光の項で記載する予定)


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2008.02.14 09:48:48

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