日本一周の旅

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2007.12.21

From:  orimasa
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日本周遊紀行:温泉と観光編(16) 「宗谷岬」


遂に、北の果てへ来た・・、そして稚内から宗谷岬に向かう・・。
途中、小さな「声間岬」の南に「大沼」がある・・、
北海道の南端、函館郊外にも「大沼」があるが、こちらは最北端の大沼である。 
周辺は湿原地帯、秋になると、越冬地への中継点として、また春になるとシベリアへと帰る休息地として約5,000羽の白鳥(コハクチョウ)が飛来する。 

「白鳥おじさん」こと、吉田敬直氏による個人的な給餌活動によりコハクチョウが呼び寄せられ、日本でも有数の飛来地になったという。 さらにはハクチョウのほかマガン、アオサギ、オオワシなど通年100種類以上の野鳥が観察でき、時期になると大沼はどこを見ても白鳥だらけ、野鳥だらけとなり、周辺にはミズバショウの群落も見られるという。

国道のすぐ横に「稚内空港」が広大に広がる。
こちらも日本最北のジェット化空港として、利尻及び礼文の離島生活路線、あるいは道北と札幌を結ぶ路線の基地として地域にとって重要な役割を果たしている。

丘陵高所には、お馴染みとなった風力発電の風車が並ぶ。 
最北の地は、風が強い町なのである。 冬は雪が降りだすと即、吹雪なってしまい、夏も風のせいで暑く感じないと・・。
調べてみると・・、この辺りは北海道の中で最も風の強い地方らしく、1年のうち毎秒10m以上の強い風が吹く日は何と130日にのぼるという。 
宗谷の地は、低層山脈のなだらかな丘陵性の地形で、ほかには遮るものが何もないことから強風が直接吹いてくる。 その風を利用して稚内市はデンマーク製の風力発電を導入しているという。 
1基当たり1億4000万もするらしく、現在、17機稼動中という、金額は・・??。 
この風力発電が、今問題になっている環境問題の一つの解決策になればと思うのだが・・?。

海面より少々高目を、宗谷岬を目指して進む・・、
岬先端に、鋭三角のモニュメントが天を指していて、見字盤には「日本最北端に地」と記されている。 
三角錐のデザインは北国のシンボルである北極星の一稜をモチーフにしているという。
駐車場横の売店の出入り口も三角屋根を模ってあり、その正面には「宗谷岬・時刻13時25分・日本最北端・気温21.0℃・北緯45度31分14秒・日付平成16年9月27日」と記してあった。
岬には「間宮林蔵」の立像があり、そこから樺太(現実はサハリン)は微かに遠望できた。距離にして43kmは決して遠くない距離であるが・・、しかし今は遠い。 
その間宮林蔵が、樺太が大陸でなく島である事を発見するのは1800年初の事であった。

江戸後期・・、ロシア軍艦が蝦夷北方にしばしば現れるようになり、合わせて事件を頻繁に起こすようになる。 その為幕府は、北方警備のため宗谷に守備要員を派遣し、その中に松田伝十郎がいた。 更に幕府は、伝十郎と間宮林蔵に樺太の調査を命じている。
又、当時1800年前後にヨーロッパで「サハリンが島であるのか、半島であるのか」の論争が起こっていて、それらに決着を図るべく幕府天文方は松田と間宮をサハリンに派遣し、探検させたとも云われる。

林蔵は幼少より数理にあかるく、日本地図の親・「伊能忠敬」の門人になる。 忠敬は上総(かずさ・千葉県)、間宮林蔵は下総(しもふさ・茨城県)の出身でいわばお隣同士であった。 忠敬は、林蔵のことを「非常の人」と世間に告げていた。 
林蔵は、その後北方・千島等を測量するため、伝十郎とともに小船でサハリンの最南端シラヌシに上陸する。 両人は東西に分かれて、林蔵は東より北上し、海上あるいは陸上より調査を行なっている。 林蔵は一旦帰国するが、直ぐまた二度目の調査に出かけている。

1808年、西海岸を探検した松田は、海峡最狭部に達し、ここが海峡であることを確認し、間宮も松田に合流して、同様に海峡を確認した。
併せて翌1809年、間宮は、現地人の船で海峡を越えて大陸に渡り、この地域の詳細な調査を行いながら、そのまま大陸に渡り黒竜江を上って満州(中国東北部)にまで達している。 
日本では、大陸と樺太の海峡を「間宮海峡」と呼んでいるが、一般には「タタール海峡」(韃靼海峡)と称しているようである。 
又、海峡の最短部は距離で7km程度であり、そこを間宮海峡と呼ぶ場合もあるようだ・・。

明治8年、条約により樺太全島はロソア領になり、千島全島は日本領になった。 
その後、日露戦争で樺太南部は日本領に成ったが、太平洋戦争の敗戦で全てを失った恰好になっている。

 
岬の右側に「宗谷岬」の歌碑が有り、そこから絶えず曲歌が流れていた。

『宗谷岬』  歌:千葉紘子
流氷融けて 春風吹いて       吹雪が晴れて しばれが緩(ユル)み           
ハマナス咲いて カモメも啼いて   渚の貝も 眠りが覚めた
遥か沖ゆく 外国船の        人の心の 扉も開き
煙も嬉し 宗谷の岬         海鳴り響く 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて       流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬      ハマナス揺れる 宗谷の岬

幸せ求め 最果ての地に
それぞれ人は 明日(アシタ)を祈る
波もピリカの 子守のように
想い出残る 宗谷の岬
流氷融けて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬


海道沿いに「最北・・」と謳った看板の商店や民宿が目立った。

この旅の現時点までは、「北上」と名打ったが、これから先は「南下」である。
何故「北上」で、「南下」と称するのは定かでないが、きっと地球の緯度の関係かも知れない・・?。
日本海側は夕陽・日の入り・日没なのに対して、コレからのオホーツク海・太平洋は旭日・日の出・日昇等となる。
北海道は知らないが、一時期本州では裏日本、表日本などと称していた。 
小生はこの呼名は余り好きではないが・・、最近では「裏日本」という呼称は差別的用語に当たる・・とかで、使われてないようだが・・?。
 
2007年の上さん(妻)との「道北旅行記」です。 
http://outdoor.geocities.jp/orimasa2007/hakkaido1.htm 


ご愛読有難う御座います。
「日本周遊紀行」の内、宗谷岬からはオホーツク海、太平洋岸を南下しますが、これらの内容、投稿は平成20年「正月明け」から掲載致します・・、お楽しみに・・。
先ずは読者の皆様、良い年を御迎え下さい・・。

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  • 2007.12.21 11:51:05
From:  orimasa
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日本周遊紀行:温泉と観光編(15) 「サロベツ原野」


天塩町から道道106号線に入ると、しばらくは日本海へ注ぐ天塩川の左岸を走り、日本海とは微妙に距離を置いたところを北上する。

天塩川は、日本海と並行しながら延々と南下するように流れていて、そして天塩町の北端でやっと日本海へ流れ込むのである・・。 この河は北方の幌延町辺りで日本海へ向っているのだが、直前まで来て砂丘に阻まれ、今度は海岸線沿いを 凡そ10km も南下するためである。

その天塩川が南下しているところを、道道106号線が並行して北上している。 北海道・北端の地へ至る最後の道であり、道としての最後の導(しるべ)でもある。
5km ほど北上したところで道は左へカーブし、天塩川を渡る。
満々と水を湛えた川は全くの自然のままで、いかにも大自然の北海道をイメージさせるのに充分である。 
天塩川と日本海を分け隔てている浜砂丘へと「天塩河口大橋」」を渡る、ここからは左手には「利尻富士」が見え隠れしている。

ひたすら日本海沿いを北上することになるが、道道106号線の第一幕は、天塩川を渡って浜砂丘へ出ると遠くに見えてくる有名な風車である。 
色々なCMや広告写真などで使われているらしいが、日本とは思えない雄大な風景の中に溶け込むように在るのが風車の列である。
車を北へ走らせながら、その姿が徐々に近づいてきて、軽いクランク状のカーブを抜けると、風車の列は眼前に広がる・・、又、ここが天塩川と並行してきた最後の地点でもあり、離れる場所でもあるのだが・・。
風車の数は 29基あまりあって、横一列に日本海に向けて立っている。
東北の北部地方あたりから、あちこち風車のある景色は拝見しているが、ここほど圧倒的な風車の景色はなかったように思う。 
このあたりは見る目にも風が強い地域であることが想像でき、環境に優しい自然エネルギーは北海道の風景にもぴったりである。

その風車の列を過ぎると、いよいよ「サロベツ原野」へ入る。 
原野は、余りにも広大な為か南側を下サロベツ原野、北側を上サロベツ原野と称しているらしい。
道は、北への真っ直ぐな道が淡々と進む、本当に「ひたすら」という言葉が似合うほどに続く。 しかも、対向車には殆ど会うこともなく、どこまで続くのだろう・・、と思うくらいに続く。 
左右は、サロベツ原野とは言うけれど、ウネリのような低い丘陵地が続いているようであり、時節柄、枯れた色合いが、その寂寥感に輪をかける。 しかしながら道路は全くの平坦で、直線が無限の彼方まで延びて姿を消しているのである。

周囲は丘陵地から次第に原野らしく平原の様相になってきて、左に時折、真っ青な北の海が見渡せる。 
地図を見ると道路はいかにも海岸、波打ち際を走っているように思われるが、実は7〜80m陸側に位置していて、その間は同様に原野になっているのである・・。

草原の所謂、枯れ草文様の中に緑の縞模様が見られ、次第に原生花園・原生湿原と言われる様態に変化してきているようだ。
「サロベツ原生花園」と青海に幽かに浮かぶ山・「利尻岳」の三角錐の姿を眺めながらの快適なドライブウェイは続く。 
定規を当てた様な真っ直ぐに延びた一本の道、思わず踏むアクセルに力が入るが、スピードに乗って通り過ぎてしまうにはにはもったいない程の景観が連続している。「利尻・礼文・サロベツ国立公園」の広く爽やかな風景を存分に味わいたい・・!!。 

北海道の北の果ての短い夏はすでに終わり、すでに晩秋の気配が漂よい、緑の湿原は褐色の大地に変わっていたが、しかし青い海、澄んだ空は変わることがない。
サロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た、稚内天塩線の唯一のパーキングである。 
ここで一息の散策ある・・、処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。 ハマナスの花の色は北へ来るほど「赤味」が増すといわれる。

森繁久弥氏も映画ロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであるった。
『 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 砂丘の涯の 海に立つ富士 』
「富士」とは、無論、利尻富士のことである。

ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたる。
又、大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか・・。
気がつくと道標に「稚内26km」とあった、北端の地へあと一息である・・。
同じような風景が続く中、景色にやや飽いてきた頃、小さな集落が見えてくる、「稚咲内」の集落である。
それなりの速度で走ってきたが、久方ぶりの信号であり、ここを右折するとサロベツ原生花園の核心部である湿原地帯へ向かうが、この時期はもはや花の季節は完全に終わっている。 
本来なら、日本低地における代表的な湿原でとくに高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が、季節を華やかに咲き競うはずであるが・・。  そこに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物群が100種類以上も植生しているといわれる・・。
季節柄・・、今はただ一陣の風が吹き抜けるのみである・・。
小生もその「風」にのって、再び最北の地へ向う・・。           

『風』 「詩」北山 修 「曲」端田宣彦 「歌」はしだのりひこ(昭和42年)
1 人は誰もただ一人旅に出て     2 プラタナスの枯葉舞う冬の道で
  人は誰もふるさとを振り返る      プラタナスの散る音に振り返る
  ちょっぴりさびしくて         帰っておいでよと  
  振り返っても             振返っても
  そこにはただ風が           そこにはただ風が
  吹いているだけ            吹いているだけ
  人は誰も 人生につまずいて      人は誰も 恋をした切なさに
  人は誰も 夢破れ振り返る       人は誰も 耐えきれず振り返る 

  何かをもとめて
  振り返っても
  そこにはただ風が
  吹いているだけ
  振り返らずただ一人一歩ずつ
  振り返らず
  泣かないで歩くんだ
  何かをもとめて
  振り返っても
  そこにはただ風が
  ※吹いているだけ
  (※は繰り返し)

次回は、 北端の最終章「宗谷岬」

この後は、北端の地から南下することになりますが、
投稿は正月明けになります・・、乞う御期待・・!!。
来年も宜しく・・、皆さん良いお年を・・!!。
      

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  • 2007.12.21 11:33:15

2007.12.20

From:  orimasa
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「雄冬岬園地と銀鱗の滝」

日本周遊紀行:温泉と観光編(14) 「雄冬岬と神居岩温泉」


札幌から日本海側の海岸沿いを留萌まで走る国道231号は、難関だった「雄冬岬」の部分が開通してから留萌方面へは相当近道になったという。

石狩街道をまっすぐ北上し、その後20数kmは海岸沿いを走ることになり、厚田までは比較的平坦な海岸線であるが、その後は切り立った崖っぷちのような部分でトンネルもが多く、深い山の中を走る様である。
この道路を別名「ダイヤモンド道路」とも呼ばれるという・・。
平成の始め頃、「雄冬岬」(おふゆみさき)にトンネルが開通するまで、長い間「幻の国道」と呼ばれていた。 この切り立った断崖部分の道路建設は大変な難工事で、十勝の広尾から襟裳岬間の「黄金道路」より工事費がかかったので、ダイヤモンドという名前が付いたという。 


この西端の岬を「雄冬岬」(おふゆみさき)というが、この地域一帯は厳しい断崖絶壁の中に位置しており、「北海道三大秘岬」の一つとされていた。 因みに後の二つは室蘭市の「地球岬」、根室市の「落石岬」である。 
秘岬といわれるだけあり、岬からの眺望は日本海の雄大さと周辺の荒寂ぶりがかなり印象的である。
岬の最寄の雄冬集落(所在地は増毛郡増毛町)は、往時は、札幌側からの往来が不可能で、増毛側からもかっては冬季通行不能であった。 
ここへの交通は事実上一日一往復された増毛〜雄冬間の定期航路しか実質的な交通手段がなく、且つ、この定期航路も時化での休航が珍しくなかった。 そのため雄冬集落は長い間「陸の孤島」と呼ばれ北海道を代表する秘境の一つであった。 

国道231号線の浜益から雄冬の国道が開通し、全通の悲願が適ったのが1981年(昭和56年)11月10日のことで、これで「陸の孤島」から解放された。
しかし、直後の1ヶ月もしないうち国道上の雄冬岬トンネルで大規模な崩落事故が発生し、国道は通行不能となり、雄冬集落は再び「陸の孤島」へ逆戻りする悲劇に見舞われたのである。 復旧工事が完了し雄冬岬トンネルの再度の開通したのは、2年半後であった。
だが、「陸の孤島」から雄冬は解放されたとはいえ、冬季間の度々の通行止めは依然続いているという・・。
現在、雄冬岬は展望台・岩石公園などが整備され、又、急峻な崖から海岸線に滑り落ちるように「銀鱗の滝・白銀の滝」が流れていて、北海道を代表する観光スポットに変わりつつあるようである・・。
この辺りの陸地、というより山域は増毛山地と言われ、その主峰・暑寒別岳を最高峰を(標高1,491m)中心に南暑寒岳(1,296m)・郡別岳(1,376m)・浜益岳(1,258m)・雄冬山(1,198m)・天狗岳(973m)と千m級の山並みが連なり、日本海に傾(なだ)れている地域なのである。

この山塊の北側を水源とする「暑寒別川」の急流が日本海に注いでいる。
暑寒別川の秋、ここまで来ると、山域の薄暗い雰囲気から海水浴場もある開けた長閑な地域になり、増毛の町並みも望まれる。 
その河口から150m程のところに暑寒別橋があり、下をのぞくと巨大な黒いものが蠢いている、良く観ると魚の姿が所狭しと群がって川上を目指しているのである。

サケだ・・!、
放流されたサケたちがはるかな旅を終えて、故郷の川をめざして帰ってきているのである。ここで「鮭の遡上」を間近に観なくてはと、堰まで行くとパシャパシャと水面をたたきなから、秋サケの群が上がってくる。 60〜80cm、いや、1mもあろうかと思える黒みががかった銀色の体が目の前で跳ねる迫力に、思わず後ずさりした・・。 
堰を上るのに流れ来る水流に押し戻されては、また挑戦するサケの奮闘ぶりに思わず喝采し頑張れ・・!、と拍手を送られずにはいられない。 
川面を埋め尽くし、背びれを立てて遡上し、時おり豪快なジャンプを見せる光景に暫し見惚れ感動する。その姿は自然界の神秘と生命の尊厳を教えてくれるのである。  

 サケは増毛にとって、かってのニシンにかわる貴重な資源だという。この川で生まれたサケは3年、4年後に帰ってきて、生命のドラマを演じていると・・。
 当河川は北海道でも有数らしく、ものすごい数の秋サケの遡上中はラジオでも報じていたようである。
 因みに増毛町の漁獲の統計を見ると、全漁獲のサケの割合は最盛期の半数ちかくになっているようだ・・。


一時を楽しんだ後、増毛の町を横切って再び海岸に出ると、やがて留萌市に入った。「市」だけあってやはり大きいタウンである。 
夕暮れが迫ってきたので、G・Sに寄りながら温泉地を尋ねる・・、市郊外に「神居岩温泉」というのがあるらしい・・。
夕刻の時間帯で本来なら人々が活発に往来し、夕餉の支度に忙しい頃合いであるはずだが・・??、何故か町並みは閑散としていた。 それが、何故か心に引っ掛かったのであるが・・。


「神居岩温泉」は、留萌市街地から留萌川を渡り運動公園の手前、チョイト山に入ったところに在った。
一軒宿の鄙びた温泉ホテル兼日帰り温泉施設であり、神居岩は「カムイワ」と読むらしい・・。
早速ながら、浴室に入った瞬間すごい臭いがした・・。漢方皇源薬湯風呂とやや長ったらしい名の浴槽で、ここから薬湯臭を発しているようだ。 
一方、冷鉱泉の沸かし湯もあり大浴槽に使用しているらしい。 
二種類の泉質があり、どちらかというと薬湯風呂がウリのようである。 温泉は濃密な泉質を期待したが、浴感はあまり感じられずサッパリしたもんであった。
泉質は、単純硫黄冷鉱泉とナトリウム−塩化物泉で、昔アイヌの人々が病気や傷を癒したとも言われており、現在も、このお湯目当の湯治客が多いとか・・。

同じ館内には広―い和室の無料休憩所が在ったことは嬉しかった。 食堂兼休憩室で、食事をしながら今日一日のまとめを行う。 
休憩室の大型スクリーンが大相撲を放映していて、小生もファンである大関「魁皇」が優勝したことを報じていた。
そう・・今日は日曜日だったのである・・。


次回は、 「サロベツ原野」

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  • 2007.12.20 10:21:26

2007.12.19

From:  orimasa
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写真:「小樽運河」

日本周遊紀行:温泉と観光編(13) 小樽・「小樽運河」


余市から国道5号線にのって「小樽」へ入り、いきなりあの有名な「小樽運河」へヒョッコリ出た。
ここは小樽でも最大の観光スポットであろう、好天でしかも今日は気がつけば日曜日(平成16年9月26日)とあって大層な人出である。 
以前、「冬の小樽」を訪れた時、小樽運河を中心とした界隈で、雪の路端に小さなキャンドルを灯した「雪明りの道」を、ソゾロ歩きした幻想的な景色を思い出した。

小樽運河で顕著なものは、何と言っても向こう岸に並ぶ古き「倉庫群」であろう。
当時は、沖合い海上に停泊していた船舶から、積荷の揚げ降ろしを艀船(はしけ・荷役作業の小船)にて運河を通じ、これらの倉庫へ出入りしていたのである。
現在これら倉庫群は運河食堂、工芸館や各種観光施設となり、周辺は散策路やガス灯が整備され、小樽の一大観光スポットになっている。
「小樽運河」とその周辺地区は、1996年に「都市景観100選」を受賞している。因みに、道内では「札幌・大通り」、「函館・西部地区」など5個所・・。 

ところで、この「観光運河」は実は半ば偶然の産物らしい・・、
当時の運河は川幅(実際は海である)は今の倍もあり、札幌をはじめ北海道の海上流通の拠点として多いに賑わっていた。 
しかし港湾が発達するに従って、この「運河方式」は衰退してゆき、次第に無用の長物になっていった。 
当局は埋め立てを計るが、市民団体の反対もあって、なんとか公園として一部を残したという・・、これが現在の「小樽運河」である。


歌にも唄われる「ロマンチック小樽」であるが・・、
小樽の町の歴史は、北海道開拓の歴史とほぼ並行するもので、特に江戸末期から、明治、大正期、昭和中期にかけては、真に北海道の経済産業の中心地であって、「文化遺産」などが豊富にあるのは北海道において函館と江差そして、小樽以外にはないという。

江戸中期に、松前、江差方面ではニシンの魚影が姿を消し、回遊して其の中心を「タカシマ」、「オタルナイ」へと移っていった。  
回遊の移動と共に、松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになり、以来、昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町としての繁栄が始まったと言える。

松前、江差の出稼ぎ鰊漁夫は、最盛期には、寝る暇も、食べる暇も、用を足す暇すらない状況になり、4ヶ月間の給金は現在に換算すると150〜250万くらいの悪くない稼ぎであったという。
その間、「網元」の利益は計り知れないものがあり、得られる利益は膨大なものとなったという。 
「ニシン御殿」と言えば誰でも知っているように、豪華絢爛な建築物として知られ、高島、祝津地区のニシン御殿、青山別邸などが、栄華の一端が伺えるのである。

しかし、小樽も同様で、明治27年の大豊漁以来、次第に漁獲を落として、昭和にはいると落ち込みはさらにひどくなり、昭和20年代には激減、30年代以降ニシンは全く姿を消してしまったという。

小樽の鰊漁が盛んになると同時に、日本海には、蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれた。 この船は別名「北前船」と呼ばれ、大阪から酒、木綿、砂糖、塩などを積み、日本海にまわり敦賀で縄、ムシロ等のニシン漁用具を、新潟、酒田で米、白玉粉を積み込み1ヶ月から1ヶ月半で小樽に到着した。 
帰りは、カズノコ、サケ、ニシン、昆布、ニシンカスなどを積み込み大阪へ帰還した。 年一回往復の厳しい航海だが、得られる利益は莫大ものがあったという。

「北前船」と呼ばれた弁財船は和船のため、構造的に沿岸航海向きであり、速度も遅く日数がかかった。
明治期には、次第に西洋船が導入されはじめ、しかも増加していく。 その後、小樽、東京、函館の間に定期航路も開設され、物資だけでなく人的移動も急増していった。

その頃、かの裕次郎の父・石原潔が山下汽船という船会社勤務で、1937年(昭和12年)に転勤で小樽に引っ越してきた。 
小樽の港に「石原裕次郎記念館」があるのは、裕次郎ファンならずとも周知であるが、裕次郎3歳のときで、当時、小樽では開道70年北海道大博覧会が開催されていた頃であった。
石原氏は、樺太から木材を切り出して、船で小樽に持ち込む仕事を監督していた。 ノンキャリアの叩き上げで剛胆な男であったという彼は、海運業で稼いだ給金は死ぬまで女房・子供に贅沢をさせたといわれる。
慎太郎19歳、裕次郎17歳の時に亡くなったという・・、享年52歳。


小樽が幸いしたのは、ニシンは全く来なくなった時期に併せるように、物資の流通量が急増してきたためであった。 
明治30年頃には、積み降ろしの施設として運河方式が検討された。 
運河と聞けば、普通は陸地を堀込んで作っていくが、小樽の場合は海岸から数十メートル隔てて埋め立てをし、水路を造っていくという方法で作られている。 
大正12年12月には小樽運河が完成している。
最盛期には、艀(はしけ)が400隻以上運河を航行するという混雑状態であったが、逆に、効率が落ち、前述したが港湾築港にともなって、昭和の戦後には無用の長物になってしまったのである。

物流量が増え船舶の重要性に併せて、小樽は本格的な鉄道建設に取りかかり、明治13年に小樽−札幌間が日本では三番目として鉄道が開通している。 
新橋−横浜間がイギリス式が採用されたのに対し、北海道はアメリカ式であり、アメリカ西部開拓と同様な牛よけのガードが付いた機関車が走ったという。
輸入された2台の機関車に「義経」「弁慶」と粋な命名がされたのは、アイヌ達を意識した開拓使の心意気であったのだろうか・・。 
小樽−札幌間35.9kmを、3時間かけて走り抜けるのだから、随分のんびりしたものであるが、当時としては驚くべきスピードであったに違いない。

函館本線の小樽駅前通りを港へ向かって坂を下りていくと大通りにぶつかる。 
この交差点より、日銀小樽支店までの一帯は「北のウォール街」として昔から呼ばれていた。 
その名の通り、日銀小樽支店、三井銀行、安田銀行、第一銀行、拓銀、道銀をはじめとする銀行建築が並び、三井物産、カネタツ鈴木、三菱商事などの商社、日本郵船、大阪汽船、山下汽船の運輸関連などが軒を並べ、北海道一の経済繁栄を誇っていた。

因みに、道都である「札幌市」も同様な市街を形成していたが、そのほとんどは近代化され、今、当時の姿で残っているものは数えるほどしかない。 
小樽の場合、それらの建造物が、その時代のまま殆どが現存している・・、という点で驚異的であるという。 
戦後、国際貿易港としての役割を終え、北海道経済の要は札幌市へ移ると、本州資本や大手銀行は次々と引き上げ、ほとんど残るものはなかった。
しかし、これらは遺産として数多く残され、「小樽」は今や、これら遺産を含めた「観光都市」として、多くの人々を呼び寄せているのである・・。

次回は、 雄冬岬、神居岩温泉



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  • 2007.12.19 11:33:15

2007.12.18

From:  orimasa
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写真:北海道観光、提供

日本周遊紀行:温泉と観光編(11) 「積丹半島」


「積丹半島」に到って・、国道229から神威岬を目指したが神恵内(かもえない)地区で通行止めに合ってしまった。 
バリケードが有り一人のガードマンが立っていて、左側に案内板には・・、
『 通行止の案内 国道229号 神恵内村大森〜柵内間 災害のため通行止・・・』と有った。
災害というのは今年(2004年)の「台風18号」の事である。  

九州をかすめて日本海に出た台風は、9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を北上して、衰えるどこか発達して、網走管内雄武町で最大瞬間風速51.4m、札幌市でも50.2mを観測し、北海道大学の銀杏並木や大通り公園の樹木の倒壊等はTVのニュースで映像にも映された・・。 
道内の観測点の14ヶ所でも過去最高を記録したといい、道内では死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える災害となった。
その被害は、青函連絡船が強風で転覆し、約1600名の死亡者を出した1954年9月26日の「洞爺丸台風」に次ぐものではないかとも言われる。


積丹半島の最大の観光地であろう神威岬や積丹岬は、半島の先端にあり本来なら神恵内の村から、車でほんの10分か15分ほどでいけるところであるが・・。
「神威岬」への直行は断念せずるを得ない・・、幸いに神恵内から峠越え(当丸峠)の道道998号線が長大な積丹半島を横断しているので、そちらから向かうことにした。 
  
峠を越えて海岸に出た後、積丹岬へ向かうため国道229を左折して積丹岬を目指した。 
大きな駐車場があったが・・、実は、ここは岬ではない、人々がやっとすれ違える背丈程の暗くて狭い「トンネル」を通過したところに、本来の岬が飛び込んできた。

出たところに展望スペースがあった・・。 
積丹の海岸美を代表する絶景、島武意海岸が眼下に現れた。日本の渚百選にも選ばれた海岸であるが、ここは一見、何処かの風景に似ていた・・、そう、下北の「仏が浦」である。
だがスケールは違った・・、仏が浦の方が雄大である。
ここは渚百選とかいわれ、海中公園等に指定されている景勝地である。
急な坂を下って五分ほどで積丹岬を回る自然遊歩道が延び、積丹岬灯台や女郎子岩、神威岬や遠く余市のシリパ岬も望めるという。

因みに、このトンネルは、観光のためではなく、明治28年ニシン漁が盛んだった頃に海岸から干場までニシンを運ぶために掘られたそうである。


気が付けば当地は「積丹町」である・・。
嘗ては、北海道の経済的中心であった「小樽」を起点に、難所で名高い積丹半島を経て江差へと至るその道はニシン漁で賑わい、なかでも、積丹半島の歴史には数多くの伝説や逸話が今に伝えれられている。
その節、北海道を代表する民謡「ソーラン節」は、ニシン漁で賑わった積丹町が発祥の地と言われている。

北海道は、江戸時代になってこの地を治めていた松前藩がアイヌとの交易をおこなっていたが、財政難の理由などから商人に交易を委ねることになった。 その後、商人が漁業を請け負う制度が発達(場所請負)し大いに栄えたが、江差地方が凶漁に見舞われた頃は、ニシンは日本海をどんどん北上し、暫くは積丹半島周辺がニシン漁のメッカとして大いに栄えたという。         

百万石のニシン漁で沸いていた積丹半島では依然として海上輸送がメインであった。 
大正期に入り、大小数多くのトンネルが完成し、積丹半島も馬車交通路の時代を迎えた。 こんな時期、積丹も同様大正初期よりニシンの漁獲が落ち込んでいき、漁獲量の減少とともに多くの人々がこの地を去っていった。

戦後になって「ニセコ・積丹・小樽国定公園」の指定を受けたのをきっかけに、一躍観光地として脚光を浴びるようにようになり、さらに近年、積丹半島と神威岬が北海道遺産に認定され、より多くの観光客が積丹半島を訪れるようになった。
「北海道遺産」とは、北海道に関係する自然・文化・産業などの中から、推進協議会によって選定されたものを指し、2001年10月に第一回が選定され、現在52件が指定されている。

引続き・・、「積丹半島・・U」へ続きます。

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  • 2007.12.18 13:31:20
From:  orimasa
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日本周遊紀行:温泉と観光編(11) 積丹半島・・U「神威岬」


積丹半島・「神威岬」であるが・・、
そこは80mの切り立った細い岩峰が延びていて、その頂上付近に「チャレンカの道」呼ばれる、良く整備された遊歩道が付けられている。 その先端の眼下には、シャコタンブルーと言われる大海が広がり、その透明度は約20m以上ともいう。
先端岬の沖合いには、乙女の化身と言われる、高さ41メートルの「神威岩」が天を刺している・・。

剣状の神威岩には、ある伝説が伝えられる・・、
『 日高地方の平取の酋長の娘「チャレンカ」は、源義経を慕って神威岬まで何十里も追って来たが、義経はすでに船出した後であり、彼女は悲しみのあまり、この岬から身を投じて果てた。その後、彼女は岩と化し、常しえに愛を訴える神威岩になったと・・。 』
尤も、北海道の義経伝説は、和人のアイヌ対策上広められていったというのが一般的らしい。

この岬は、アイヌ人達によって江戸末期(1856年)こ頃までは女人禁制の地で、船に女人が乗ると海が荒れて遭難すると信じられていた。 
岬の先端付近に建っている灯台は、北海道に現存する灯台としては五番目に古く、明治中期の1888年に初点灯しているという。

「神威岬」は幕末まで女人禁制だった・・、
この辺りには女性を嫌う恐ろしい神がいて女性が乗った船を沈めるなどという伝説が信じられていた。 実際に、この灯台を巡って遭難事故が起きている・・。

この神威岬の海岸には大人が立って歩けない程の小さな手掘りのトンネルが今も残っているという。 何故、このトンネルが堀られたのかは、大正元年10月に神威岬灯台職員の悲しい出来事があったからと言われてる。

神威岬灯台は明治21年に建てられ、当時、灯台職員とその家族が居住していた。 
家族は、買い物をするのにも余別の部落(神威岬の東)まで片道4qの山道を通らなければならない生活をしていた。
その山道は、馬の背のような崖の道が続き、強風で一歩踏みはずすと海に転げ落ちそうなところが何カ所もあった。
荒れた日などは子供や女性はとても歩くことが出来ず、海岸の岩や大きな石を飛び跳ねながら歩くのが普通であったという。 
切り立った崖からは落石があったり、特に絶壁が海に突き出たところなどは、凪の日や干潮時を見計らって波の間をすばやく渡らなければならなかった。

1912年(大正元年)10月の或る朝のこと、三歳の次男を連れた灯台長の奥さんと、若い職員の奥さんが食料品の買いだしのため、海岸を歩いて余別の集落まで出掛けた。 
行く途中、その危険な岩場で思いがけない大波が寄せ、一瞬のうちに三人は海にのみこまれ行方不明になてしまったという。  
この事故以降、村人はトンネルを掘るよう役所に陳情したが、「一般の道路でないため作れない・・」と断られてしまう。 そこで村人は、自らトンネルを掘る作業を開始した。
そのころは現在とは違い満足な道具もなく、すべて手掘りであった。 
両方から掘り進めるうちトンネルの中央が食い違ってしまい、困り果てて作業は中断していたが、ある日、反対側からハンマーの音がかすかに聞こえてきた。今度は両方から鐘を鳴らして実験をしてみたところ、かすかにお互いの鐘の音が聞こえ位置の確認ができた。
中央で食い違っていたトンネルが少しずつ近づき、誰からともなく鐘の音に合わせ、念仏を唱えながら堀り進み、遂にトンネルは貫通したという。 
それ以来、誰言うと無く、このトンネルの名は「念仏トンネル」と言うようになり、念仏を唱えながら通ると安全だと言い伝えられている。
今、このトンネルの前に、「念仏トンネル由来の碑」が立っているという。


最近、日本の灯台の全てが自動制御になって日本から「灯台守」がいなくなったかもしれないが・・。
小生、幼少の頃習った好きな歌の中で、「灯台守」があった。

「灯台守」 イギリス民謡 日本語詞:勝承夫
凍れる月影 空にさえて     激しき雨風 北の海に
真冬の荒波 寄する小島     山なす荒波 猛り狂う
思えよ 灯台 守る人の     その夜も 灯台 守る人の
尊きやさしき 愛の心      尊き誠よ 海を照らす
           

「ソ−ラン節」と並ぶ北海道のもう一つの民謡に、先に紹介したが「江差追分」がある。
この江差追分の数多い歌詞の中の次の歌詩は、義経伝説や神威岬以北への和人・婦女子通行禁止を背景にして作詞されたものと言われる・・、「御神威様」とは神威岬のことである。

「江差追分」  北海道民謡
 松前江差の             忍路(おしょろ) 高島
 津花の浜でヤンサノエ−       及びもないが
 好いた同士の            せめて歌棄(うたすつ)
 泣き別れ              磯谷(いそや)まで

 連れて行く気は           蝦夷地海路の
 山々なれぞネ−           御神威様はネー
 女通さぬ              なぜに女の
 場所がある             足とめる           


次回は、 「小樽」です・・!!。

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  • 2007.12.18 13:29:31

2007.12.17

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日本周遊紀行:温泉と観光編(10) 島牧・「宮内温泉と象の花子」


 北海道・渡島半島は、南北に細長く伸びた半島で全般に山が多く、それも海岸付近までせり出した山岳地域であるといってもいい・・。 
道内における原野や平原湿地、拓けた地域の石狩平野、十勝平野などの平地といわれるところは比較的多いが、この半島にはそれらは皆無といっていい程存在しない。 しかも、この狭い幅の半島に1500m級の山も在り、渡島半島は山岳地帯中心の半島なのである。

瀬棚町から島牧村への境界地も、例にたがはず山岳地で、ここに海岸より水平にして5〜6kmの地点に、標高1520mの「狩場山」が控えているのである。 その山塊は急傾斜を伴って海岸に落ち込んでいる。この断崖のような急傾地を無理やり削り取って付けたのが、今の国道229号線であり、先人のご苦労を偲ぶのみであるが・・。
しかも、日本海に面しているので、豪雪地帯でもあり、トンネルの他に雪避けのドームやスノーシェードを多く取り付けているのも特徴的でもある。

数々の墜道を潜り抜けてヨウヨウに島牧の集落に着き、近場に「道の駅・よってけ島牧」があって、「よってけ」とゆうので寄りましょう・・、そして温泉である。 
案内された「宮内温泉」(ぐうないおんせん)を目指して、山中へ更に分け入った・・。 
海岸より、泊川を遡って4kmほどの山の中に一軒宿の小さな温泉があった。

江戸時代(安政年間)には発見されたという北海道でも古い温泉だという。 
途中、「熊注意」の看板が数多くあったが、背後は山合いに囲まれ、周囲には人家は全く無くなく、林の中に隠れるようにして存在していた。

年代を感じる古めかしい木造の一軒宿の温泉旅館で、ひっそりと静かなに佇んでいる。 もちろん日帰り入浴、立ち寄り湯はOKである・・。 
先ほど、北桧山の温泉センターでチョコット聞いた話だが、この温泉は「象の花子」が湯治したとして知られているという。
象の「花子」は、戦前に上野動物園にいたものが有名だが、こちらは札幌円山動物園の「花子」であった・・。

『象の花子』について・・、
宮内温泉は、ゾウの花子が湯治に来たことで有名であるとか・・。
花子と名付けられたゾウは沢山いるが、宮内温泉に来た花子は1964年にタイのバンコクから日本の子どもたちにと先ず京都市動物園に贈られたものという。 
その後、1966年にさっぽろ・円山動物園に移り、1967年の開園と同時に、今人気絶頂の旭川・「旭山動物園」にもやってきた。 

しかし、越冬中に「くる病」にかかり、左後足が湾曲し立てなくなったため展示することができないと判断、安楽死させてやってくれと1968年に札幌市の剥製標本会社の「信田修治郎」氏に売却された。

当初は薬殺し、標本を北海道大学に納めるつもりであったが、病気を治してやることができると考えた信田氏が面倒を見ているうちに再び立ち歩けるようになったという。 
その話がマスコミを通じて全国に広まり、日本中の子どもたちのアイドル的存在になった。その後、「ゾウの花子の会」という全国組織までできる程であった。

しかし、1970年、旭川冬祭りに出演した際に骨折症状が出てしまい、再び立てなくなってしまったのである。 そのため、その年の8月から長万部町の「二股ラヂウム温泉」で湯治をすることとなった。 
しかし、この温泉場は冬期間には閉鎖されるため、11月にこちらの「宮内温泉」に移転したのである。
島牧村では村をあげて「花子」を歓迎し、宮内温泉に浴槽付きの「花子のお宿」という小屋を建てて長期に渡って面倒を見ることとなった。 

花子は7時から健康診断、10時に食事、16時まで歩く練習をして就寝するという毎日を送っていた。
宮内温泉の滞在期間中には、「ゾウの花子の会」の招きで南米パラグアイ大使一家、茨城県議会一行が訪れるなど、かなりの人気を誇っていたらしい。 
関東地区・花子後援会の会長は当時衆議院議員の三ツ林弥太郎氏であり、また、1972年には偶然宮内温泉を訪れた笹川良一氏が花子を見て感嘆、日本顕彰会から信田氏が社会福祉貢献者として表彰されたほどであった。
1975年、回復した「花子」は宮内温泉を離れ、その後は本州を旅して回ったらしい。
1980年、「花子」は募金で集まったお金を元に飼主の信田とともに南米パラグアイに移住し、そこで一生を終えたという。 

パラグアイでも人気があったらしく、パラグアイ日経ジャーナル創刊号は「花子、念願のパラグアイ移住、南米の大地を歩く−日本の子どもたちの夢と希望を背にして−」 という記事を表紙で取り上げている。


旅館入口前の右側のスペースに花子の住んでいた小屋があったが、現在は取り壊されて残っていない。
建物の外にある露天風呂は、野放図の状態で所謂、野天風呂であった。 この地にかって、象の花子を入れるため大きな露天風呂があったのであろう・・。 
温泉は、やや黄緑がかった色でヌルヌル感がある。
表示によると、泉質ナトリウム−炭酸水素塩・硫酸塩泉、源泉の温度48.8℃は入浴には適温であろう、湧出量3000L/分と多い・・。

実は、この宮内温泉から更に山には行ったところに、「黄金温泉」、「大判の湯」、「小判の湯」といった露天風呂があるらしい、雰囲気はいずれも熊に出会いそうな奥山である。 
又、海岸より一つ手前の山路を辿ると、「賀老の滝」というのがあり、日本の滝百選に選ばれた高さ70m、幅35mの大瀑布であるとか・・、ここにも「千走川温泉」というのがあるらしい。

いずれにしても、道南のこの辺りは、都市や主要観光地から遠く離れているので、北海道人も最後の秘境と認める地域・島牧村である。 狩場山を中心とした、周囲は人家もまばらな地で、結構、良い温泉が点在しているようである。


次回は、 「積丹半島」

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  • 2007.12.17 13:16:28

2007.12.16

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日本周遊紀行:温泉と観光編(9) 知内・福島「演歌・三ちゃんと千代の三横綱」


国道228の海岸の際を走る・・、車窓を開けて気持ちよい潮風を吸いながら、「道の駅・しりうち」で一息入れる。 
気がつくと「北島三朗の故郷」と大きな看板が目に入った。 そうなのだ・・!ここはサブちゃんのふるさと・出身地である。

小生も含め、演歌好きの大多数は、北島三朗のファンでもあろう・・?。 
演歌ひとすじ三十余年・・、「女シリーズ」、「仁侠シリー」、「一文字シリーズ」をはじめ、ヒット曲多数。 長年に亘る舞台公演やTV 時代劇など出演し役者としても高い評価を受ける。
小生も新宿・コマ劇場の公演を二度ほど拝見したが、その情熱と豪華絢爛の舞台には思わず拍手を送ったが・・。 
海外公演も多く、文化人としても国際交流に貢献しているともいう。
 観客の拍手を勲章とし、終りなき芸道を今も現役で歩み続けている。

「北島三朗」・・、地元での談話
『知内町で生まれ育った私にとって、知内町は「心のふるさと」です。 毎年8月のお盆に故郷に帰ると、子どもの頃、海や川で泳いだ事、 森にカブト虫を探しに行った事、秋サケの遡上を見に知内川に 出かけた事、冬手づくりスキーで朝から夕方まで遊んだ事。 などが 思い浮かび「自然豊かな知内町」を痛感する次第です。 是非、一度、私の生れ故郷 「知内町」 へ遊びに来て下さい。』


次に、やって来たのは「福島町」である。 
街へ入って間もなく、今度は元横綱「千代の山・千代の富士」の記念館が目に付いた。 
一段高いところに鉄筋コンクリート造りの建物で、正面に土俵入りを模った銅像と大きな太鼓櫓に旗幟(のぼり)が風に揺れていた。
この両横綱は、こちら福島町の出身であった・・。

先ずは、往年の相撲ファンならよくご存知の、第41代横綱・「千代の山 雅信」(ちよのやま まさのぶ)についてである・・。
始め、双葉山の所属する立浪部屋への入門を希望していたが、「双葉山に勝てる男になるために”」 と言われて1942年(昭和17年)敢えて「出羽海部屋」に入門した。 
最初から横綱を期待され、戦時中、戦後における食糧難の時代に、当時の出羽海(元三代目・両国)親方の方針でただ一人、腹一杯の食事を与えられるほどの逸材だったという。

戦後の娯楽の少ない時代に、ラジオから流れる大相撲放送は何よりも楽しみであった。
小生も小さいながら(小学生)相撲好きの父と一緒に、夢中になって聞いたもんである。 当時は「大相撲全盛」の時代でもあり、四横綱の羽黒山、東富士、照国、そして千代の山といわれた「横綱四天王」の時代であり、中でも千代の山が一歩抜きん出たように思っていたが・・。

現在では最も多くの横綱を輩出している北海道だが、その第一号はこの「千代の山」であった。 武器は突っ張りで、初土俵から9場所で入幕し、いきなり全勝する。 
前途将来を嘱望されるが、体の故障と気の弱さがたたり、昭和28年に「横綱返上問題」を起こしてしまい、期待されたほど大成はしなかった。

昭和42年1月場所の後、年寄「九重」として出羽海部屋から独立する。
実際は出羽海一門から破門された形となり、このことが話題にもなったが、「北の富士」(北海道美幌、留萌、旭川出身の第52代横綱、現、NHK大相撲専属解説者)を育てている。
尚、千代の山は「吉田司家」ではなく、相撲協会が推挙する形式になった第一号の横綱でもあるという。

因みに、横綱に推挙された力士は、横綱推挙式と共に初めて披露するのが奉納土俵入りで、明治神宮において行われる。
明治神宮と相撲とのかかわりは創建前(大正9年に創建)の神宮外苑における地鎮祭の奉納相撲に始まり、次いで明治神宮創建(明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする)を奉祝して相撲大会が行われた。  

横綱の推挙状授与式について・・、 
横綱の推挙状は江戸時代からはじまり、元より相撲司(平安時代の頃、相撲大会にあわせて式部省が設置された臨時の機関及びその任にある者)の「吉田司家」からその邸宅の祭場で授与されていたようである。 横綱に推されたら力士は、吉田家に赴いて荘厳な雰囲気の中で起請文を差し出し、司家から免許状や故実書(過去の事を記入してある書類)、そして「横綱」を授かった。 
第40代・東富士までは司家より横綱免許状が出されていたようであるが・・。

しかし制度が変わり、昭和26年第41代・千代の山より明治神宮の神前において相撲協会から推挙状が出されることになったという。 
神前ではじめて横綱推挙式と手数入り(でずいり:土俵入り)が行われ、以来、恒例として横綱推挙式は明治神宮で行われることとなっている。 
序(ついで)に、「手数入り」の「でず」とは「技・わざ」を意味し、吉田司家の口伝に横綱土俵入りを「手数入り」といったことから由来する。

更に序ながら「相撲の歴史」について簡略に・・。
日本相撲の歴史は古く、「古事記」の中で、建御名方神(タケミナカタノカミ:大国主の子・諏訪大社祭神)と建御雷神(タケミカヅチノカミ:高天原の神・鹿島神宮の祭神)が出雲の国をかけた力くらべをして、建御雷神が勝ったという記述が「相撲の起源」とされる。

時代が進み平安期の頃は、相撲はいつしか闘いよりも、豊作を願い神に奉納する神事や余興になっていた。
戦国時代になると、再び武術としてのは相撲を奨励するようになり、戦国大名・織田信長も毎年大勢の相撲人(すまいびと)を集めては上覧相撲をとり行った・・、今の土俵の原形は信長による発案だと言われる。 またこの頃より、弓取り式、力士の四股名そして行司も登場したという。相撲が武術として大きく発達した時代であり、力士が武士(もののふ)である由縁もまたここにある。
江戸時代になると、寺社の建立や修復の為の寄付を集める為の庶民的な勧進相撲になり、年寄り株制度の原型や改良された土俵、四隅には柱が立てられ櫓が組まれた。 決まり手も48手が成文化され、いよいよスポーツとしての相撲が始まった。

大相撲としては、江戸時代後期に入り、今の日本相撲協会の前身にあたる江戸期の相撲会所が整備され、相撲年寄りと相撲部屋も次々と誕生した、「雷電」や「不知火」が活躍したもこの時代である。
昭和時代になると土俵の危険な4本柱も撤廃され、戦前・戦後のラジオ中継に続きテレビ中継、平成になって世界に向けて衛星中継も始まった。
近年、相撲は国民的な娯楽になり、近代スポーツとしての確固たる地位を獲得し、長大な歴史のある「相撲」は、時代に留まることなく今も進化し続けている。
しかし、外国人が台頭する今の大相撲の実情を憂う声もあるが・・。


次に、昭和後期の名横綱「千代の富士」である・・。
第58代横綱・千代の富士 貢(ちよのふじみつぐ)は・本名は秋元貢、身長183cm、現在は年寄・九重。 現役時代の異名・愛称はウルフと称した。
史上最多の通算勝星・1045勝など、数々の栄光を手にした史上有数の大横綱で、小兵ながら速攻と「上手投げ」を得意にして一時代を築いた。
立ち会い一瞬で左前ミツを拝むように掴むや否や電車道で土俵際に追いやり、最後は返す刀で鮮やかな投げ技で相手を土俵に叩きつける豪快な相撲っぷりは見事であった。
右上手、左前三ツの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。
四股の美しさも特筆すべきもので、高々と上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。 

横綱 「千代の富士」  経歴
幕内優勝 31回(全勝優勝7回)(歴代2位)
殊勲賞 1回、敢闘賞 1回、技能賞 5回
通算成績 1045勝(史上最多)437敗159休
場所数 125場所 金星 3
初土俵  昭和45年九月場所(15才)
新十両  昭和49年十一月場所(19才)
新入幕  昭和50年九月場所(20才)
横綱昇進  昭和56年七月場所(26才)
現役引退  平成3年五月場所(35才) 


次回は、島牧・「宮内温泉」

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  • 2007.12.16 10:23:19

2007.12.15

From:  orimasa
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写真:湯の川温泉「和風ホテル新松」


主に沿岸地方の「日本一周」を終えて、
概ね、日本の自然風土、歴史文化に触れることが出来た。
今回、特に印象に残った地方、地域の「歴史的側面」や温泉、絶景地等をピックアップして、当サイトに紹介致します。
御意見、御感想宜しく・・!!。

周遊は、神奈川県厚木市を出発して、以下の順に巡りました。

『東日本編』: :行程・・・神奈川県(出発地)→山梨県→長野県→新潟県→山形県→秋田県→青森県⇒北海道一周(時計回り)⇒青森県→岩手県→宮城県→福島県→茨城県→千葉県→東京→神奈川帰着




日本周遊紀行:温泉と観光編(8) 函館・「湯の川温泉」


夕刻も深まった函館市内は時間帯のラッシュ時で、首都圏並みの渋滞気味であった。
先程予約しておいた本日の宿・「湯の川温泉」へ向った。
市街地より沿岸に沿って東へ凡そ5km程であろうか・・、町内の一角、海岸沿いに温泉タウンはあった。

湯の川温泉は「函館の奥座敷」、「北海道三大温泉」の一つに数えられるとともに、道内でも指折りの古湯という・・。 脚光を浴びたのは、承応2年(1653)に遡るといわれるが、古湯とはいっても比較的新しいほうであろう・・。
松前藩の藩主の子・千勝丸が、医師も見放すほどの重い病気にかかり、藩主は千勝丸のために家来たちに温泉を探させた。 その時に発見されたのが、この湯の川温泉だと言われている。その湯に千勝丸を湯治させたところ、まもなく全快したといい、以後この湯が病気に効くことで、病弱な人たちに重宝されてきたという。
その後、戊辰戦争、明治維新(1868年)の折には、榎本武揚、土方歳三率いる旧幕府軍と新政府軍との間で起こった箱館戦争では、傷病の兵士たちの療養にも使われたそうである。

「湯の川温泉」の湯の川はアイヌ語でユペツと言い、ユ(ユウ)は湯とか温泉を意味し、ペツ(ペット)は川を意味する言葉で、つまり温泉の川、湯の川と呼ばれていた。 
「湯」はサラリとした感触で無色透明、泉質はナチリウム・カルシウム・塩化物泉で慢性リューマチや神経痛に効果があるといわれている。  
特に、温泉に浸かりながら眺める津軽海峡のイカ釣り船の漁火は、函館の風物詩として全国の温泉愛好家憧れの的となっていると・・。
公衆浴場は3軒、「日の出湯」、「長生湯」、「永寿湯」が存在する。
どれも地元の人が多く通う浴場である。中でも永寿湯は湯の温度が40〜45度と熱いので有名だとか・・。

小生が泊まったのは温泉街の中程にある「ホテル新松」である。 
一流観光ホテルのピカピカさは無く、どちらかと言えばビジネス観光ホテルの気安い格安ホテルであろう。しかし、部屋の調度といい、温泉浴場といい不足は無い。
浴槽は広く、やや高温の源泉がタップリと流入し、その分が掛け流されている。
やや、きな臭い温泉臭がただよって、入ると熱めだが体に馴染んで気持ちがいい。ジックリ入ってると温泉効果も十分期待できそうである・・。
宿の食事は、絶品豊富で食べきれない程で、「ウニ」や「イクラ」がたっぷり入った野菜鍋も実に良かった。

小生は、一般に温泉宿に泊まった場合、夕・朝で少なくとも3回入る事にしている。 
宿へ着いたら先ず体をほぐすのに一風呂、就寝前に歯の清爽と合わせて浴びて、朝は目覚めと洗顔とリフレッシュのため入ることにしている。 
朝は顔と体を軽くマッサージしながら、湯疲れしないためにも短時間にするのが良いだろう・・。

次回は、 知内・福島「三ちゃんと千代富士」

小生、若年よりの『旅』の記録です。
宜しかったらどうぞ・・。
http://www.geocities.jp/orimasa2001/

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  • 2007.12.15 17:23:48

2007.12.14

From:  orimasa
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写真:望郷の丘「九人の乙女の碑(左)と氷雪の門」

日本周遊紀行(52) 稚内T・「九人の乙女の碑」


野寒布岬を後にして、海岸に沿いを稚内の市街地へ向かう。
海辺には思いのほか家並みが並んでいて、市内高台の丘からは市街地やフェリーターミナルが眼下に・・。又、「利尻・礼文」の二島やサハリンも見通すことのできる。
F・ターミナルや港からは、観光のメッカである利尻・礼文は勿論、現在は国際フェリーとしてロシア・サハリンへも就航されているという。

因みに稚内は現在、サハリン州との交流が活発化しているとらしい。 
稚内と樺太(日本名)とは現在、善隣友好というか・・、良好な関係が進みつつあるようで、稚内市の行政機関には「サハリン課」と言うセクションも有り、樺太との交流を深めるのを主業務としているようである。
だが忘れてならないのは、今なお戦争の惨禍や戦後の処理を棚上げし、解決されていない北方領土などの領土問題が暗い影を落しているのも「不幸な事実」である。


この見晴らしの良い高台は「稚内公園」であるが・・、ここの丘は別名を「望郷の丘」と呼ばれている。 
公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。 
乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑している。

その九人の乙女のことであるが・・。
日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 
後に起きた太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきたのである。

この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。  
そしてソ連侵攻のあった其の日、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したという。
 この『九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。
『戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。
 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……」・・、の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む・・。』

しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。
「 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 」  ・・・と、

一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという・・。
戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる・・。

昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は氷雪の門、九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときの感銘を歌に託している。

昭和天皇の詠み歌
『なすべきを なしをへてつひに命たちし  少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ 』   
香淳皇后の詠み歌
『樺太に つゆと消えたる少女らの みたまやすかれと ただにいのりぬ』  

昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。



次回は、 稚内U・「氷雪の門」

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  • 2007.12.14 10:37:09

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