サークルの紹介

ジャン・アンリ・デュナン Jean Henri Dunant 1863年、ジュネーブで負傷兵救済国際委員会が結成され、これが赤十字の誕生に発展した。
19世紀のみごとな博愛、人道主義にひびが入っています、人は生まれた故郷の維持を優先しようとします、それら思い出の空間が、環境問題で破壊される時、どう...

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From:  fatacy

○ 家康爺いの肉声を求めて回を重ねてきたのですが、家康爺いが今川義元への人質として駿府に赴くとき、家康爺いに従う家臣の中では最高齢者として同行した酒井忠次から始まり、多くの部下との出会いがあり、不思議と爺いについてゆく、おそらく数百人を越える一期一会を重ねたのでしょう、仮に千人として、成人してから50年の間に毎年20人の優秀な部下を育てたことになります、毎月2人のペースで人を虜(とりこ)にしてきた、爺いの魅力はなんだったのでしょうか、私の考えでは、この時代の通信、郵便ネットワークはひとえに夜間の忍者の健脚に負っていた、たぶん、千人への出会いとその猛者たちを取り込むのに、その数以上の伝令がいたと考えます、爺いは気配りと同時に裏情報も抜かりなく押さえていた、草、ラッパとの会話以外むだ話(飲んでクダを巻くとか)はしなかったのではないでしょうか、


○ ここでキーポイントです、出会う前に出会っていた、話す前に話は済んでいた、とくに、三方が原の敗走のあとは爺い独特のコミュニケーション手段を築いていた、爺いは特段槍の使い手でもなく、二刀流の名手でもなく、秀吉ほどウィットに飛んでいたわけでもなく、人の心を落とす弓の名手だったのでしょう、これといった発言の記録が無い割には多くの部下を従わせた、この時代の最上品質の知性を備えた忍者だった(情報将校タイプ)と、いろんな文献を開く度にこの観を強くします、


○ 今の時代に例えると、帝国データバンクや東京商工リサーチのような信用情報を管理する技術を、武田信玄率いる武田忍群から学んだのでしょうね、信用審査は取引の入り口(敵を知り、己を知る)ですから重要です、信長は鉄砲術で、秀吉は運搬、搬送技術、今で言うとロジスティクスで、家康爺いは忍群オンラインネットワークで覇者となったのですね、秀吉兄貴にしぶしぶお供させられた北条氏攻めでは、その後に優れた人民統治の思想と優秀な部下を多数手に入れ、箱庭世界(大井川に橋は架けさせない)ではありましたが、法治国家を作り上げた、それでは、終章ですので、家康爺いの人(ひと)落としのコミュニケーションテクニックを開帳します、


伊勢崎先生の歴史講座

徳川家康編その19・加増の価値は
http://aonoao.opal.ne.jp/lesson/hist/ieyas19.html


○ サブプライムローン問題では、多くの格付け会社の未成熟さが全世界の金融システムを巻き込み、未曾有の金融収縮による損失が発覚しています、家康爺いの禄高管理も全く近代の評価・査定方法に通じるくらい進んだものでした、忍群ネットワークの本領を発揮した検地後の評価システムでしたね、

一族・譜代の取り扱いに関して

家康は息子である秀康、忠輝や創業時の功臣に冷たく当たったなどと言われるが、功臣や秀康に対し、所領の面では十分報いており、本多忠勝に対しては、その子と孫に自分の孫娘(信康の娘と千姫)を嫁がせ、秀康の息子には、勝姫(秀忠の娘)を嫁がせるなど、一定の配慮は示している。忠輝に対しても、改易前には御三家並の所領が与えられていた(越後・高田55万石)。大久保長安事件(あるいは本多正信との政争)で改易された大久保氏も忠隣の孫、忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代である忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている(ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方も出来るのも否めない)。更には、人材の環流は組織の活性化に必須である。これらの事から一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈するべきである。

次男・結城秀康や六男・松平忠輝らを、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で、常に遠ざけていた(領地を与えたのは自分の息子であるという形式上の対応に過ぎず、秀康も忠輝も家康に終生疎まれたという)。また、長男・信康切腹に関しても、家康自らの粛清説も近年唱えられている。さらに徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原後に中枢から隔離し、この2人に匹敵するほどの武功派であった大久保忠隣を大久保長安事件で改易・失脚させるなど、息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だった。

大久保長安事件のとき、すでに長安は死去して埋葬されていたが、家康は長安の半ば腐敗した遺体を掘り起こして斬首し、さらにその首を安倍川の川原で晒し首にしており、この事から「家臣に冷酷で残虐である」と否定的評価をされることがある。

とはいえ、家康はかつて敵対していた今川・武田・北条の家臣も多く取り立て、彼らの戦法や政策の中で使えると判断したものはどんどん取り入れている。自分の勢力の維持・拡大の為とはいえ、かつて自分の命まで狙った敵を頼れる味方に変えた懐の深さを見せた家康は、"故老諸談"にこのような言葉を残している。「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」


○ 要は、コミュニケーションの全てが、評価に直結し、その裏付けの情報を添付した、戦国時代を勝ち抜くには致し方ないことなのでしょうが、「生きる恫喝」、指し示す基準にブレが無いので、従わざるを得ない、最近の業績連動人事システムのまやかしなどもこの辺りを原点にしていて、何も進歩していないのには驚きです、大福帳の筆がエクセルに変わっただけ、というのも驚異的な停滞性ですね、「ぜげん」商売が繁栄するのも致し方なしですかね、どの組織でも「ぜげん」社員が出世する、いずれにせよ、モニター機能は家康爺いしか持っていない秘密兵器でしたね、「私心」バロメーターでモニターしたのでしょうね、


○ 稲盛和夫さんの言葉に、「動機善なりや、私心なかりしか」 、というのがあります、DDIを設立し、電気通信事業へ参入するにあたって、自身の動機に利己的な心、「私心」がないかと、半年間にわたり自問したときの言葉、だそうです、家康爺いも稲盛さんも創業者として原野を切り開く情熱には共通の資質があるのでしょうね、ここで家康爺いのスタイルを見てみます、

家臣と家康
多くの有能な家臣に恵まれた家康は率直な物言いをする者を好んで重用した。時につかみ合いの喧嘩をし、罵りあった事もあると言う。


○ 「率直な物言いをする者」とは、「私心」の無さを常に試された、ということでしょう、とはいえ、二代目秀忠には、関が原の遅刻をはじめ、創業者の自分とは違う苦労、困難が伴うことを予見し、過度の「私心」狩りにならないよう気を配ったみたいです、そうして300年間、官民揃って「私心」狩りにまい進した結果、幾度となく欧米列強の介入を阻止し、独自の品質維持(どんぐりの背比べ人事)政策を続けてきたのでした、そうこうする内、先般「女性は産む機械」と失言(究極の道具化)した大臣がいましたが、この方などは、300年前をそのまま生きておられる、シーラカンスマンを見たようで思わず失笑してしまいました、これとは逆に、坂本竜馬の感性などは現在でも充分通用する進取の気象に恐れ入っています、


○ 「私心」は組織維持の観点から邪魔なものなのでしょうか、最近の世相では、内部告発(幹部から見れば飼い犬にかまれる)が深刻な企業犯罪を開示し、コンプライアンスの強化を叫んでいます、社会も少しずつ「私心」による行動を認めようじゃないかと動きつつあるようです、欧米で流行っているストックオプションの付与などは、これら「私心」を極限までヒートアップさせ、なおかつ、「私心」サイドへの選択も許し、受け入れようとしています、徐々に日本の法律も、制度も、組織を構成するメンバーも、「私心」ありきベースで運用するよう、憲法、民法に弾力性を持たせた変更をしてゆくのでしょうね、


○ どうしても笑っちゃうのは、クリントン前大統領のスキャンダルでした、チョット小太りの女性が画面に出た時を思い出してしまいます、ケネディとマリリン・モンローの悲劇もありました、アメリカのパワーの元は、人間として受け入れようとしている点でしょうか、人間の社会なのだ、この点でしょうか、翻って、日本での官僚の気持ちの腐敗は、「私心」を除去し、聖職化を強制し、結局挫折してしまう構図ですね、防衛庁の内規など、衝突事件をおこした「あたご」などに、過度の「私心」狩りによる疲弊を読み取ることができます、こちらもシーラカンス症状のようです、職業に聖職は無い、公務員(医業も加える)にも建前と本音の乖離政策を改め、本気で職業に「貴賎は無い」と言えるように、これからの100年をかけて列島改造(教育現場から)を目指すべきなのでしょう、


○ 中途半端な「私心」狩りを残すと、このかけがいのない「私心」が復讐してくる、私心=自由(制度の中での自由は制限を受けるが)、人々のコミュニケーションの中にも「私心」ありきで、認め合う方向に向かいませんか、憲法第九条の精神(国の交戦権は、これを認めない:国家は忠誠の対象ではない)はこのことを指し示しているのです、長く続いた仏教(禁欲的)、儒教(世襲の温存)、五人組(嫉妬のネットワーク)、家康爺いのセットした遺伝子、イジメを芸術にまで昇華しないよう、ここらで日本文化のタヒチ化に舵をきるべきでしょうね、いくら精神主義を鼓舞しイージス艦の秘密漏洩を防ごうとしても、国家の大きな秘密を扱う職務に、「私心」狩りを強要しても、無限に滅私を強要することになるので不可能です、それよりもプロフェッショナル化し、職業倫理で到達点を示す(減点主義ではなく、加点法に)、「私心」が倫理に結びつけば良い(国家などが介在することなく)のではないでしょうか、日本がこれから脱皮するべきなのは、国家、企業などの組織のスケールだけで倫理を押し付けてはならない、ということでしょうか、さらに進めると、モチベーション連合体、これはあくまでも大組織の介入力の存在しない状態を示します、モチベーションの維持に疲労を感じたらいつでも「抜け忍」可能、人生を賭した忠誠心→出入り可能なモチベーショングループ、今後は後者が勝利するのでしょうね、ちなみに、世襲は前者に属してしまうのでしょう、


○ 家康爺いだけでなく、この時代のコミュニケーションには、ひとつ間違うと切腹、自害となる確率が高いので、全員が行者のような日々の生活を送ったと想像しています、なぜなら、科学警察の証拠実証主義などは無いのですから、冤罪、根も葉もない自白により、いかほどの無実の人が即刻磔(はりつけ)となったかを考えると、「事実は小説より奇なり」、その内実は小説以上に奇妙な、ミステリアスな江戸の文化なのですね、さらに、女性にとっては悪夢以外のなにものでもない時代でしたが、これだけ過酷な時代を生き抜いた日本の女性が、ひと度、世界に出ると光るわけですね、「花の命は短くて・・・」、番茶も出花の瞬間を永遠に続くよう心持ちを変えて命をつないで来たのですね、「お市」、「お江」、彩(いろどり)をありがとう、


○ プロフェッショナル化したモチベーショングループの葛藤、肉体や精神の健全さの維持に影響を与えない限り、切磋琢磨、せめぎあい、組織(道具化への強制がある)から脱却し、グループ化、イーブンな配分を受け入れる、資本主義だけでも成り立たない(地球環境の制約)、社会主義では進化が止まる、両者を高度にミックスし、例えると、カツオノエボシ(多くの固体が集まり群体になるクラゲ)、考えてみると経済の高度成長期の中小企業はこのような形態になっていたのかもしれません、ただ、今となっては箱物としてのモチベーションの抜け殻になってしまい休眠、倒産してしまったのでしょうね、


○ そのような訳で、原子力発電産業(大企業としての東芝)の行く末、とくに組織論には興味を持ってみています、シャープの堺工場なども第十世代液晶パネルを引っさげて規模の効率化を推し進めてますが、それに対して、ゲリラ的存在の第六世代の工場や、とくにビジオ社との戦いに興味を持ってみています、日本式カツオノエボシ化を編み出し、組織の巨大化によるリスクの巨大化を予防するようにしてください、最後にひとこと、神輿を担いで巨大化するのではなく、必ず、葛藤を前提に緩やかなグループ結合に変化し、グループの継ぎ目で予想もできないような巨大な環境リスクを、ショックアプソーバーとして吸収してもらいたいのです、


○ 「秘すれば花」(世阿弥)、江戸時代を要約するとこの言葉になると感じています、信長、秀吉、家康爺いの3代の英雄の生き様を通して最も印象に残る事件は、千利休の賜死(死刑の一種)事件だろうと個人的に思います、秀吉は利休に黄金の茶室を監修させ、いかにわび茶の悠久でふくよかな精神性と縁の無い人格かを晒(さら)してしまった、これは文禄・慶長の役の前年の出来事で、秀吉は心の大きな穴(信長とお市)を埋めようともがいていたのでしょう、折りしも、

バテレン追放令--(1587年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4

追放令の原因 諸説と論証
この追放令が出た背景には諸説あり、秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際にキリシタンであることを理由に住民が拒否し秀吉が激怒したとも、島津攻めに向かった秀吉の目の前で、当時の日本イエズス会準管区長でもあったコエリョがスペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した事が原因とも、九州の有馬氏や大村氏などのキリシタン大名が寺社仏閣を破壊すると同時に、僧侶にも迫害を加えたり教会へ莫大な寄進を行っていた事が理由とも、また織田信長から継承した旧来の寺社領を解体して統一政権の支配下におく政策をイエズス会領である長崎にも適用しようとしてイエズス会側が従わなかったとも、宣教師の一部が国外へ人身売買を行っていた事が原因とも言われている。


○ 「宣教師の一部が国外へ人身売買を行っていた事が原因とも言われている」、このことを天正遣欧少年使節からアジア地域での日本人奴隷の実情について情報を得る、

天正遣欧少年使節、聚楽第において豊臣秀吉に謁見--(1591年)


文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本文禄元年、明および朝鮮万暦20年)から1598年(日本慶長3年、明および朝鮮万暦26年)にかけて行われた日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた戦役である。


サン=フェリペ号事件--(1596年)
(水先案内人が「イスパニアが広大な領土を獲得したのは、キリスト教の布教と宣教師の手引きによるものだ」と発言した。この発言を聞いた秀吉は、キリスト教が布教を通じて実質的に目指しているのが植民地化であることを理解し、キリスト教の禁止に踏み切ったといわれている。)

日本においてキリスト教が実質的に禁止させられるのは徳川家康の命による1614年(慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになるが、家康の禁教令も基本的な部分において言い回しなどこの秀吉のバテレン追放令にならうものとなっている。


○ 年代から見て、バテレン追放令とサン=フェリペ号事件は直接には関係が無いみたいです、いずれにしても、列強の圧迫を受け、「先手必勝」を地で行った秀吉の生き様が浮かび上がってきます、一方、「後手必勝」、構えの家康爺いは着々と江戸城で忍群ネットワークの高品質化に向け鍛錬を重ねます、家康爺いの築いた300年の両サイドに朝鮮への侵攻(文禄・慶長の役とバルチック艦隊殲滅後の日韓併合)があるのは、西欧文明の文物との差をひしひしと感じ、やむにやまれず打って出た姿が見えます、これらの点から見据えても、家康爺いの平和への好手がいかに磐石だったかが忍ばれます、


○ そしていよいよ関が原の後、家康爺いの信用査定、兵力の最適配置、先を見据えた評価・査定システムが諸法度の広まりと共に廻りだします、爺いはこれらの評価が的確であったと同時に、そのソースは明かしません、まさに「秘すれば花」を実践したのです、秘匿、隠蔽、消却などの行為は空間的に見ると、収縮方向で時間と共に埋没してしまい、もしその中にぶり返すようなリスクが潜んでいたら制御できなくなる危険性を孕(はら)んでいます、第二次大戦の遠因(関東軍の暴走)とするには少々無理があるでしょうが、環境に視点を移すと、これら隠匿行為は将来測れないリスクを負う可能性があり、危険極まりない行為になります、環境サイドでは「秘すればあだ(徒)」、積極的な開示、共有こそが地球環境維持のための知恵になります、


○ ところで、開示行為は先ほどのように空間的に見ると、収縮とは反対に拡大(緩慢な爆発とも呼べる)の性質を帯びます、ネットの中でも一度広まるとソースお構いなしに増殖する傾向があり、注意して取り扱う必要があります、それでも開示は必要です、地球という環境大王が切に望むのが、開示と共有によって環境破滅のリスクを最小限にするよう保障することです、地表の酸素総量を把握し、その配分の最適化に気を揉む時代がそこまで来ています、このような訳で、コミュニケーションのために息をする、これ自体にリスクに姿を変えたコストが隠れています、もうひとつ、差別・排除はカビのような存在で開示行為でのみ滅菌されます、開示の遅れた組織(名ばかり開示企業を含む)では必ずといっていいくらいハラスメントが潜んでいます、遺伝子にまで昇格しているハラスメント(≒イジメ)は癒すのに骨が折れます、一切の公的資金で成り立つ「世襲は世代を超えた100年のハラスメント」、とまで世の中はならないかもしれませんね、


○ こうならないように、森を増やしましょう、水蒸気(レマン湖のジェット)を増やしましょう、最後に、ネット環境をクリーンに、

地球大気の酸素の総量+WEBを伝う(共有のための)信号の総量

=地球の将来


○ ご清聴有難うございました。
(終章執筆時点での来訪者の数、延べ16000名でした)
(2008年10月10日時点での来訪者の数、延べ30000名)
(100000名に到達したら、日付を記載します、皆様もご健勝で)


○ 号外です、大分の汚職について、

教員採用汚職、「裏会議」の存在証言
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3898400.html

 「改めるべきところは、きっちと改めなければならなかった。これは私たちに責任があります」(元大分県教委教育次長)

 県会議員たちも、現金や金券の授受は別として、口利き自体は恒常的に行われていたと話します。


○ 教育を公平に受ける権利は、次世代の社会を改善してゆく最も基礎的な人権です、改善できない社会に生まれたとしたら、これ以上のイジメ(庶民は道具である)は考えられません、「教育談合」、これも治すのに、100年かかる病巣ですね、いたるところに罠(仕組みや構造)として設けられている、「裏会議」、私も若い頃引っかかったことがあるので他人事と思えず、号外を出しました、


○ ルーツが見える記事です、「秘すれば花」の密室性でしょうか、

自衛官の自殺 基地内に閉じ込めるな  2008年9月15日
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2008091502000131.html

自衛官の自殺が後を絶たない。上司による「指導」という名のいじめが原因と指摘される事例もある。自衛隊の内部は基地の外からは見えにくい。実態解明へ調査を進め、再発防止に生かすべきだ。

 約二十四万人いる陸、海、空自衛隊での自殺者は年五十−七十人で推移していたが、二〇〇四年度に過去最多の九十四人となった。〇五、〇六年度はともに九十三人、〇七年度も八十三人で、十万人あたりの自殺者は三四・四人。

 自殺は日本社会全体の問題だが、全国平均の十万人あたり約二十四人や一般公務員の約十八人と比べても、深刻さが分かる。

 防衛省も、二十四時間の電話相談窓口を設けたり、自殺者が出た部隊に精神医学や心理学の専門家らを派遣し、他の隊員の心のケアをしている。問題は、自殺の原因を覆い隠さずに調べて再発防止に生かそうとしないことだ。

 同省は、事務官も含めた〇三−〇七年度の五年間の自殺者四百七十二人の理由の内訳をまとめている。借財百二人、家庭四十九人、職務四十一人、病苦十四人だが、半数以上の二百六十六人は「その他・不明」である。

 イラクへの海外派遣など自衛隊の新たな任務が隊員らにストレスを与えていると、関係者は心配する。一般企業や学校で問題になっている「いじめ」や「パワーハラスメント」も「防衛省として言葉の定義を持っていない」として、実態を把握していないという。

 海自佐世保基地の護衛艦さわぎりで一九九九年に首つり自殺した三等海曹の両親が「上司のいじめが原因」として国に慰謝料などを求めた控訴審で福岡高裁は先月、「上司の言動は指導の域を超え違法」と、自衛官の自殺では初めて国の責任を認めた。防衛省は上告を断念し「再発防止に努める」としたが、「いじめだった」とは今も認めようとはしていない。

 自殺した隊員の遺族が「いじめが原因」と起こした裁判は横浜と静岡両地裁でも続いている。遺族らは「うやむやにしては、同様に悩んでいる自衛官の自殺は止められない」と提訴した。

 自衛隊は軍事機密などを理由に、基地内部で起きたことを外部に公表したがらない。身内だけの調査では限界があるかもしれない。軍人や家族などから苦情や相談があった場合、市民の代表が軍隊内に入って調査できるオンブズマン制度があるドイツなども参考に防止策を考えたい。


<国会議員の世襲>避けるべきだ48% 毎日新聞世論調査
10月20日19時10分配信 毎日新聞
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081021k0000m010028000c.html

毎日新聞は、父母または祖父母が国会議員だった場合を世襲と定義している。それによると、衆参両院の世襲議員は自民党で120人を超えるのに対し、民主党は20人台にとどまっている。同党は党の内規で世襲を制限することを検討している。【中田卓二】
















タイトル:男と女とクラインの壷
21世紀物理学のアキレス腱、時間の仕組みに真っ向立ち向かいました。
http://momloveu.com/klein-bottle-j/

男と女とクラインの壷


「3.5次元のゆらぎともつれ 14(終章)」
http://www.c-player.com/ac99328/message/20081018?format=time


「3.5次元のゆらぎともつれ 7」
http://www.c-player.com/ac99328/message/20080816?format=time


「3.5次元のゆらぎともつれ 1」、へはこちらから、
http://www.c-player.com/ac99328/message/200805?format=time


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2008.04.29 09:16:59

From:  fatacy

○ プレ終章になります、信康切腹事件も耐え難い事件でした、信長への恭順を証明させられた、そして今川との過去の清算を強制させられたのでした、次に控えるのは、秀吉との確執です、小牧・長久手の戦い、稀に見る忍者戦だったようです、さっそく見てみましょう、

小牧・長久手の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A7%E3%83%BB%E9%95%B7%E4%B9%85%E6%89%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)に、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦役。小牧の役とも。

開戦まで
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い時に、秀吉は織田信長の次男・信雄を擁立して、信長の3男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。この戦いの後、秀吉は同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いた。それは、秀吉に対し臣下の礼をとることを意味することになるため、秀吉の「主家」を自認する織田信雄はこれを拒否し、大坂参城の命に従わなかった。

これに対し、秀吉は信雄家の家老であった津川義冬、岡田重孝、浅井長時(田宮丸)の3人を懐柔し、「3人が秀吉に通じた」というデマを流した。これに疑心暗鬼となった信雄は3月6日に三人を処刑、秀吉に信雄を攻撃する口実を与えてしまう。その信雄が家康に援軍を求め、家康が3月7日に出陣したことから、秀吉と家康との戦いとなる。


秀吉包囲網の形成
小牧の役に当たっては、紀州の雑賀衆・根来衆や四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。


○ この後の詳細部分は、いかに凄まじい忍者戦だったかに重点を置いて読み調べてください、登場人物として興味を引くのは、徳川方の四天王は言うに及ばず、森長可(恒興の女婿で本能寺の変で信長とともに戦死した森蘭丸の兄)、於江与(佐治一成に嫁いだ浅井長政の三女、後に家康の子徳川秀忠と再婚し、その正室となった、母はお市の方:崇源院、徳川家光、千姫の母)、


雑賀衆・根来衆の動き
雑賀衆・根来衆が海陸から北上して秀吉側へ攻勢をかけたので、秀吉が尾張へ出陣するのはかなり遅れた。秀吉の尾張出陣後も、雑賀衆・根来衆は大坂周辺を攻撃して、秀吉の心胆を寒からしめる。


政治史的意義
この戦いで、秀吉は家康を完全に屈服させることに失敗し、征夷大将軍補任、すなわち幕府開設への道が閉ざされ、後の政治史へ大きな影響を及ぼすこととなったという説がある。これは当時の観念では、名実ともに武家の棟梁を意味する征夷大将軍となるためには、東国(特に関東)を支配することが必要条件とされており、戦国期に関東を支配していたのは北条氏だったが、家康は北条氏と同盟関係にあり、秀吉が東国・関東を支配するには、まず家康を屈服させる必要があったという説である。

小牧の役はこのように政治的色彩の極めて強い戦役だったと考えられている。秀吉は家康を屈服させられず、後に北条氏を征服することには成功したものの、終始家康に対する不安と懸念の解消は果たせなかった。後の徳川幕府への道はここから始まっていたとも言われる。


崇源院 ---(於江与、小督(おごう))
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E6%BA%90%E9%99%A2

浅井長政の三女。母は織田信秀の娘・お市(小谷の方)(織田信長の妹)。長姉の淀殿(茶々)は豊臣秀吉側室、次姉・常高院(初)は京極高次正室。

最初の婚姻相手は佐治一成で、その後離縁させられる。2度目の婚姻相手は豊臣秀勝、のち死別。三度目は江戸幕府二代将軍徳川秀忠に再々嫁し、秀忠の正室(継室)となる。


人物像
淀殿(茶々)・常高院(初)・崇源院(江)のいわゆる「浅井三姉妹」は、「戦国一数奇な運命を辿った姉妹」として知られる。いずれも母・お市の方の美貌を受け継いだ美女で、幼い頃からたいへん仲の良い姉妹だったと伝えられる。

だが実のところ、これほど身分が高く歴史的にも重要な人物でありながら、崇源院の容貌・性格などを含めた人物像を伝える確たる史料は少ない。小説・ドラマなどでは、前述のイメージや、夫・秀忠との関係から類推して、美貌で誇り高いがヒステリックで嫉妬深い性格の人物として描かれる事が多い。が、作家永井路子は彼女を母や姉達ほど美人でもなく機転が利く訳でもないが、どんな運命に巻き込まれても平然と受け流し、その度に魅力を増していく女性という、全く別の解釈をしている。

夫・秀忠はお江与と結婚して以降、浮気はあったが正式な側室は1人ももたなかった。彼女が秀忠より年上で、嫉妬深い性格であったため、律義な性格であった秀忠は頭が上がらなかったとされるが、それだけ魅力のある女性ではあったようだ。

また、春日局との対立から、「自ら養育した」三男・忠長を溺愛し二男・家光を疎み廃嫡を企てる悪女のイメージも強い。かつては実子でもお気に入りの子だけをあからさまに贔屓するのは普通の事で、実際に三男の方を可愛がっていた可能性はあるが、近代以前高貴な女性は決して我が子に自ら授乳し育児をする事は無い(それは乳母の役目。事実、忠長にも乳母が付いている)という常識からして、それは有り得ない。「嫡子(長子)相続制」を定めた家康の政治的意図や、春日局が彼女の死後に大奥で絶対的権力を握った背景も考慮すべきであろう。

二男・家光よりも三男・忠長を可愛がったのは、忠長が母・崇源院の伯父・織田信長によく似ていたためであるという。忠長の妻は織田信長の次男・織田信雄の孫娘であり、母・崇源院がいかに織田家との血筋を重んじていたのかが伺える。


○ 「かつては実子でもお気に入りの子だけをあからさまに贔屓(ひいき)するのは普通の事で」、ここでは贔屓と表現されていますが、この言葉以上の差別的扱い、さらには贔屓の対象から外れると、どんどん道具化されてゆく、お気に入り⇔道具化への両サイドの振幅が極端に開き、感情むき出しで命がけ(半死半生)の人生だったのですね、家康爺いの人生を巡る数多(あまた)の女性の中で、築山殿と於江与は印象に残る女性ですね、


○ 信長の後、覇権を継承した秀吉に真っ向立ち向かい、三河から関東を維持した力量を支えたのは、伊賀越えから共に歩んだ伊賀忍たちでした、秀吉は毛利をはじめ西の水軍を押さえていたので、負ける気はしなかったと思います、小牧・長久手の戦いの後も悠々と大坂城に引き返しています、この戦の後、しばらくして服部半蔵が亡くなり、本田正信が徳川の知恵袋として家康爺いを支えることになります、


○ 本章はタイトルにあるように、教師として職責を全うする方をイメージしながら描いているので、作為(自分で言うのも変ですが)のない重要で貴重な事実を取り上げておきたいと思います、次の世代を支える子供たちには、この道だけは歩んではならないと警鐘を込めて、人の道具化が極限まで進むと肉片化まで行ってしまいます、以前、養老 孟司先生(解剖学)の「バカの壁」だったか、発言だったか定かでないのですが、今の子供たちは死体を目にすることがあまり無く、人の死(自分の死)にたいして向き合う機会が無いという主旨だったと思います、これからお話しするのはお市の方の長男、万福丸(浅井三姉妹の兄)の話です、

お市の方
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%96%B9

なお、市は秀吉を毛嫌いしており、勝家が自害するときに城から脱出するように勧めたが、市は受け入れずに勝家と運命を共にしたと言われている。死を賭してまで秀吉を避けた理由としては、秀吉が猿顔で長政に比べるべくもない醜男であったこと、または秀吉が信長、長政や勝家と異なり成り上がり者であったこと、さらに、夫長政の死後、戦国の習いとはいえ、お市の生んだ長男とされる万福丸が秀吉の手によって田楽刺しにされた上に磔(はりつけ)にされた事項などが考えられている。ただし、秀吉は彼女に熱烈な好意を抱いていたとされ、小谷落城の際も賤ヶ岳落城の際にも母子の生命を何とか救おうとしていた。また後年茶々(淀殿)を側室に迎えたのも、三姉妹の中で彼女が一番市に似ていたから、と言われている。


磔 (はりつけ)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%94


○ 紹介だけに留めて置きます、明治の初期まで行われていたのですね、最近でも愛憎極まり、肉片化を辿(たど)った事件が数年おきに発生しています、ここで、感情のマイナス面の連鎖を例に挙げてみます、コミュニケーションの遮断、顔も見たくない、個人的な思い込みによる断罪、排斥、排除、仲間への排除の通知及び同調の強要、この辺りから戦争状態です、脅迫、監禁、抹殺、ここまでは道具化の経路で、この後は肉片化に向かいます、恐怖感を連帯し、意味の無い憎悪や復讐を空回りさせる構造です、行き着くところはナチスのホロコースト(人種の大量抹殺)でしたね、スタートはエサの奪い合いから、コミュニケーションの断裂を起こし、しだいに拡大してゆきます、宗教観が関与すると、数千年も続くカラ回りもあります、これらのローテーションを良く知り、いかに戒めてゆくか、初期コミュニケーションの糸口が大切であることを再認識してゆこうと考えています、「バカの壁」の不感症に陥らないようお互いに注意を喚起するのは大切ですね、


○ ミステリーがあります、秀吉は万福丸が信長の実子であることを知っていた、さらにこの万福丸の扱いを考えると、信長への恨み(畏(おそ)れ)は尋常ではなかったと察せられます、文面にもあるように徹底的に自分の強大さをお市の方に示し、服従を促す、と同時に、秀吉のお市の方への憧憬には凄まじいものを感じます、越前北ノ庄城内で自害の報に接した時の落胆の大きさは察するに余りあります、このような心持ちで、聚楽第で謁見した家康爺いとの邂逅、物語は続きます、


○ 実はこの聚楽第では天正少年使節との謁見も行われ、彼らの持ち帰ったグーテンベルグ印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた(これをキリシタン版という)、1591年のことでした、この辺りの描写をさらに、

1587年7月 豊臣秀吉によるバテレン追放令発布

徳川家康
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豊臣家臣時代
天正14年(1586年)11月1日、家康は京都に赴き、11月5日に正三位に叙任される。11月11日には三河に帰還し、11月12日には大政所を秀吉のもとへ送り返している。12月4日、家康は居城を浜松城から駿府城へ移した。

天正15年(1587年)8月、家康は再び上洛し、8月8日に従二位、権大納言に叙任される。その後、家康は後北条氏と縁戚関係にあった経緯から、氏政の弟で旧友の氏規を上京させるなど秀吉と氏直の仲介役も務めたが、氏直は秀吉に臣従することに応じず、天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が始まる。家康も豊臣軍の一員として出陣し、ここに秀吉による天下統一が成った。なお、これに先立って天正17年(1589年)7月から翌年にかけて「五ヶ国総検地」と称せられる大規模な検地を断行する。これは想定される北条氏討伐に対する準備であると同時に軍事的に勝利を収めながらも最終的に屈服に追い込まれた対秀吉戦の教訓から領内の徹底した実情把握を目指したものである。この検地は直後の移封によってその成果を生かすことはなかったが、新領地の関東統治に生かされることになった。

その後、家康は秀吉の命令で、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国から、北条氏の旧領である武蔵・伊豆・相模・上野・下野・上総・下総の7カ国に移封された。これは150万石から250万石への加増であるが、徳川氏にとっては縁の深い三河の土地を失い、さらに当時の関東が北条氏の残党など、なおも不穏な動きがあったことを考えると、家康にとっては苦難であったと思われる。だが、家康はこの命令に従って関東に移り、江戸城を居城とした。

関東の統治に際して家康は有力な家臣を重要な支城に配置するとともに、100万石余といわれる直轄地には大久保長安や伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正・向井正綱、成瀬正一・日下部定好ら、有能な家臣を代官などに抜擢することによって難なく統治され、関東は大きく発展を遂げることとなる。


○ このような流れから、天正少年使節団の持ち帰った文物は家康爺いを通して間接的に坂東の大学、足利学校に影響を与えたと充分に考察可能と考えてます、家康爺いはキリシタンにたいして鷹揚な態度を示し、ウィリアム・アダムス(三浦按針)の例にも見られるように積極的に西欧の先進知識を取り入れたと思われます、そこで、ルネッサンスの人間主義との関係はどうだったのか考察してみます、伊東マンショはローマまで行ってきたのですが、次のページの描写が良くできていると思います、

遣欧少年使節 ( けんおうしょうねんしせつ)

宗麟は遣欧を知らなかった?
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n246.htm


○ 1579年(信康切腹事件)から少年使節団の謁見(1590年)までの約10年間、信長から秀吉に時代が変わり、家康爺いも関東へと、その直後の文禄・慶長の役、秀吉さんは西洋の文物を目の当たりにし、やられる前にやる、先手必勝主義を地で行ったようです、わが家康爺いの末期、徳川家康の命で起草された1615年発布の13ヶ条から成る最初の武家諸法度、そのほか類似の禁中並公家諸法度、諸宗諸本山法度、どうも家康爺いが西洋と、文禄・慶長の役から学んだのは法制度の整備だったようです、封建制度を磐石なものに裏付けをした法治主義の導入は見事なものでした、大名間のいざこざだけは自分の人生をふり返ってみて、第一に避けたいことだったのでしょうね、ご期待に沿えず名残り惜しいのですが、これといってとくにルネッサンスからの影響は探せませんでした、ただ、権力をむやみに振り回す暴挙は無くなり、法治制度を優先したインテリジェンスには敬意を表したいと思っています、


○ 電話の時代を経て、瞬時に感情の共有をできるテレビ会議の時代に移ろうとしています、家康爺いの固めた、あらゆる人の隔離政策(箱庭世界観)が再発現しないよう自由の原理に立ち返るのは大切な生きる力です、人類史上最も強い恐怖に苛(さいな)まれた偉人、家康爺いの魂を弔(とむら)いたいと思っています、と同時に、移動の自由、婚姻の自由、職業選択の自由、思想・信条の自由、発言の自由、報道の自由の大切さを噛み締め、これらを蝕(むしば)む人権の蹂躙(じゅうりん)に繋がる、強要、教唆、誘導、道具化(近年性差別の分野で要注意)、公的役職の世襲、連帯責任(職場などのパワハラの元)の強制、個性差を論(あげつら)ったバカ笑い、これらは全て最終的に暴力に繋がります、逆に言えばこれらのメカニズムを良く知れば、火元が分かるので、勇気を持って立ち向かうことができます、社会あるいは行政がこの勇気を敏感に嗅ぎわけ、支えるようにしたいものですね、


○ さてここで、自由にまつわる話題を少々、私は幼い頃から、「自由には責任が伴う」、と教えられて育ちました、この場合、憲法で言う自由とは絶対的自由のことで、責任云々はその下位の行政法等での相対的自由のことを指しています、これらの混同がレトリックとなり、正直、官僚たちの腐敗した行動(行く末を案じない)を生み出したと、一面で考えています、今、私は自由には絶対的自由しかなく、エサの配分や、社会での席取りに関する制限は、教えられなくても分かっています、敢えて責任を持ち出したのは策略ではなかったかと勘ぐっています、誰も無差別駐車の自由を叫んで憲法訴訟をする訳でもありません、気になっているのは、本来人権として備わるべき絶対的自由が、教育の世界で捻じ曲げられていないか、自由を通して基本的人権が矮小化されているのではないかと気を揉(も)んでいます、無責任であれとは言いません、しかし、敢えて、絶対的自由を明示します、「人は生まれながらにして神聖不可分な自由を権利として持つ」、この部分が曇っていては、世襲教師の麻薬ループを抜けられなくなります、ご用心を、


○ ところで、実は、イジメのルーツはこの曇りのことなのです、もっと正確に表現すると、この曇りの原因が除去されず、時として体罰(恫喝であったりする)のように拡大生産される不安や恐怖に端を発しています、くれぐれもお願いしたいのは、入学試験を考査する教授に世襲のサイクル(安易に児童の責任を持ち込んでいないか)が存在しないことを教職員は自戒し、判定への徹底した開示を目指して努力をお願いします、「教育の機会均等」を保障する、このことは21世紀では地球規模の事業になります、一歩一歩で良いので、異民族、異文化の子息への開かれた教育を目指してください、人間を育(はぐく)む、子供たちのイジメがこの部分を嗅ぎ取っての行動であるケースも増えてきています、


○ だいぶルーツの9も煮詰まってきました、コミュニケーションの糸口を失くすと、閉塞された強制が待っている、この仕組みに話題を転じてゆきます、マイクロソフト社がこの10年取り組んできたOS、ウィンドウズの多言語対応も実績を積んできました、ようやく異言語間のコミュニケーションが身近になってきました、携帯でも間もなく簡易通訳機能も搭載されてくるでしょう、今後ますます日本で育った子供たちが海外に出てゆくことになるでしょう、環境知識のベースを備えてやらないと苦労するのは目に見えています、江戸時代は剣のこなしが必須の素養だとしたら、分別ゴミの分類について成分組成をしっかりと身につけておいてあげてくださいね、では、ラストスイング、ルーツの10に突入します。


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2008.04.29 08:54:02

From:  fatacy

○ このスピードだと、ゴールデンウィークの頃に終章を迎えそうですね、


○ 唐突ですが、人生には4つの麻薬、いわゆる麻痺させるものがあります、これを2つずつに分け、前者は肉体に作用するもの、後者は精神世界に作用するものとします、「麻薬撲滅キャンペーン」は大切ですね、代表的なヘロイン、これは肉体に直接、それも内面、神経系を麻痺させます、人生の時間的な繋がりを断ち切ってしまう恐ろしい薬剤ですね、いっぽう、肉体に直接作用し、外面に影響を与えるものとして、暴力や戦争があります、体罰、DV(ドメスティックバイオレンス)などが含まれますね、


○ それでは、後者の精神面に作用する麻薬として、内面的には、宗教があります、あくまでも麻痺させるものとしての役割を例えただけで、宗教が麻薬だとは思っていません、数千年の人類の歴史を紡いでこれたのも宗教のおかげかもしれません、今後も宗教的な要素は社会に必須のものなのかもしれません、ただ心配なのは、人類の未来に対して、宗教があまり方向性を示してくれていない、例えば、伝染病で苦しんでいるとき、やはり、役に立つのは、薬学であり、公衆衛生学なんでしょうね、前の章で取り上げたジュリアおたあが幾度となく家康爺いの側室への命令を、命を賭して断った、このような凄まじいエネルギーを宗教は秘めている、これを話したかったのです、このエネルギー、導く方向を誤ると大変な消耗が待っているのでこのように取り上げました、


○ 最後の4番目、精神面に作用し、外面的な麻薬として、人の道具化が挙げられます、家康爺いの時代は戦(いくさ)に負けると、それだけの理由で断頭されました、それは、逆に自分が負けると殺されるという恐怖を源にしています、今の時代は、戦国時代ほどの直接的な恐怖は無いのでしょうけど、出口の無さ、閉塞感を感じ、それが緩慢な恐怖に繋がるケースは多いのではと考えます、いずれにせしても、人を道具化する考えに繋がるケース、とくに、年を取り、衰弱してゆく道すがら人間の尊厳が薄れてゆく(同時に、生きた記憶も)、このような場所での道具化を見過ごしてはならないと考えています、この点だけは、儒教の年長者を敬う、これは正しかったですね、教師が道具化されていて、教えられる生徒は道具として生きることしか教えてもらえない、としたら、道具化された教師が世襲されてゆく、この場合は麻薬のように作用してしまうケースと考えてよいでしょう、


○ 週末毎にお会いするので、新しい挨拶言葉を考えてみます、キーワードの候補が幾つかあります、週末、土曜日、ウィーク、蘇(よみがえ)り、過去の秀逸な言葉として「ウィークエンダー」というのがありました、これに肖(あやか)り、挨拶性を加えて、「ハローウィークリー」、いかがでしょうか、前置きはこれくらいにしまして、いよいよ、ルーツ9、10へのクライマックスの下拵(ごしら)えにかかります、突拍子も無いことからスタートです、


○ 私はこれといった愛国者でもなければ、右翼でもありません、しかし、これだけはお伝えしておきます、日本人の優秀さについてです、近年、国内統治の不整合さから古館さん(ニュースステーション)が熱弁をふるう機会が多く見受けられます、欧米、アジア、ヒスパニック、モズレム、アフリカン、各民族との関係で、日本人および日本社会の優れた面が再認識されつつあるようです、生産品の品質の高さはピカ一ですね、ここからはイジメとコミュニケーションの関係について、また、品質管理の厳しさの話も織り交ぜながら、めでたく終章を迎えたいと考えています、


○ ルーツの8のメインテーマは、なんといっても家康爺いの、信康切腹事件(1579年)これに尽きると思います、例外的に酒井忠次に再登場願いましょう、

酒井忠次
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前半生
徳川家康が今川義元への人質として駿府に赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。

永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた。永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康にあくまでも従った。永禄7年(1564年)には、三河国から今川氏を締め出す総仕上げ・吉田城(愛知県豊橋市)攻めで戦功を立て、そのまま、吉田城主に取り立てられた。以後、忠次は「東三河の旗頭」として、三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる。

家康の主だった合戦である元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの諸戦役に参加し、戦功を立てた。特に、三方ヶ原の戦いに際して浜松城の太鼓を打ち鳴らし敗戦の味方を鼓舞した逸話、長篠の戦いで鳶が巣山砦の奇襲を成功させて織田信長の賞賛を受けた逸話が有名である。


没落から最期
家康の厚い信任を受けていた忠次ではあったが、天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けたとき、大久保忠世とともに弁解の使者に立てられて安土城に赴いたものの、信康を十分に弁護せず信康切腹の命令を防げなかった(ただし、信康切腹事件が信長の命令によるという件は、異説も存在する)。

家康が豊臣氏の傘下に入ったのちも、豊臣秀吉から家康第一の重臣として遇され、天正14年(1586年)には従四位下・左衛門督に叙位・任官された。

天正16年(1588年)、長男の酒井家次に家督を譲って隠居する。慶長元年(1596年)10月28日、京都で死去した。享年70。子孫も徳川家康に仕えて多くの戦功をたて、出羽庄内藩14万石(幕末期に17万石に加増)の藩祖となった。


松平信康
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E5%BA%B7

松平 信康(まつだいら のぶやす)は、徳川家康(出生当時は松平元康)の嫡男。

切腹事件の真相--(1579年)
このため近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が強くなっている。

その史料として「當代記」「安土日記」(最も古いとされる信長公記)では家康と信康の間に問題が起こり、それを家康の方から酒井忠次を使わし信長に相談したと読み取れる。また信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである。また「家忠日記」によると、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じている。そして旗本で岡崎城を固めている。

前述の典厩五郎氏は浜松城派と岡崎城派との対立で家康と、岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し切腹か暗殺に追い込まれたとし、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説を唱えている。

後年の徳川家康は酒井忠次が嫡男の家次の所領に対する不満を訴え出た所、「お前も我が子が可愛いか」ときつい嫌味を返したという逸話が残っている。信長に対して忠次が弁明を行わず、結果として信康を自刃に追い込んだとして後々まで忠次に恨みを抱いていたという事を表す逸話であり、これが本当ならば、家康自らが信康を葬り去ったとする説と矛盾するものである。


説話
信長が自分の嫡男の織田信忠より優れた器量を持つ信康の将来を恐れた(高柳光壽説、史料は示していない)。
事件の発端になったという徳姫自身が信康弁明の為に安土に居る父・信長に会いに行くと家康に頼み込んだ。 [要出典]
信康は二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張し、服部半蔵の介錯で自刃したという。このとき、半蔵が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士(天方道綱)が代わって介錯したとの話も残る。
信康の切腹に殉死者を出すほどの人望があった。 [要出典]
家康も信康の死を痛く悲しみ、関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参したとき「信康がいればこんな思いをしなくて済んだ」と言った。
上記の内、半蔵の逸話、関ヶ原での家康の嘆き、家康と酒井の問答は徳川実紀中に「武辺雑談」「東武談叢」「寛元聞書」「柏崎物語」を出典として紹介されている。


○ いかがでしょうか、ここで登場人物を整理してみます、織田信長(この時44歳/48)、嫡男の織田信忠、家康爺い(この時36歳/72)、嫡男の松平(徳川)信康、徳姫(五徳、織田信長の長女)、信長に詰問(直接本人からかは疑問)された酒井忠次、そこに同席した大久保忠世、築山殿(家康爺いの正室、母は今川義元の妹)、甲斐武田家、話題の主軸は、信長と家康爺いのコミュニケーション問題が嫡男と正室の処刑にまで至ったのでしょう、これには、(1573年)に武田信玄が病死、(1578年)に上杉謙信が死去し、信長の覇権確立の瞬間であり、清洲同盟が従属の関係に変化した時でもあります、家康爺いの過度の恭順の証、言い換えると、織田の家臣団には組(くみ)されない独立性を保ったと考えられます、ここで徳川の家臣団の名わき役、お二方に登場願います、


大久保忠世
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大久保 忠世(おおくぼ ただよ、天文元年(1532年) - 文禄三年9月15日(1594年10月28日))は戦国時代の武将であり、徳川氏の家臣。通称は新十郎、七郎右衛門。三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の大久保氏の支流である大久保忠員の長男であり、忠世ともに武名で知られる大久保忠佐と忠教(大久保彦左衛門)は弟に当たる。子に大久保忠隣。蟹江七本槍の一人であり、徳川十六神将の一将をなした武将。

大久保氏は徳川家康の祖父・松平清康から松平・徳川氏に仕えるようになったといわれ、忠世の家はその支流ながら手柄の大きさから本家をしのぐようになった。忠世も永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げた。特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励ます目的で、天野康景とともに武田の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して大混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという(もっともこの記述が残るのが実弟である忠教が著した『三河物語』なので、信憑性には疑問がある)。また、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても弟忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好とともに大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。同年12月、家康から二俣城の城主に命じられた。忠世は武田の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられている。また、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に家康が信濃国に勢力を広げると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番している。

軍事的才能ばかりでなく、政治的にも優れていた。一時期、家康に反抗して追放となった本多正信の帰参を助けたり、若くして重んじられた井伊直政を嗜めたりしている。天正18年(1590年)、後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、豊臣秀吉の命もあって、小田原城に4万5千石を与えられた。


○ 家康爺いの人生を彩る名わき役、ユニークキャラで登場願いました、ホンダ(本田技研工業)ジェットのルーツなんでしょうか、

本多正信
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本多 正信(ほんだ まさのぶ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。徳川家康の重臣で、江戸幕府の老中。相模玉縄藩主。

生涯

反逆から流浪
天文7年(1538年)、本多俊正の子として三河で生まれる。はじめ鷹匠として家康に仕えた。しかし永禄6年(1563年)、三河にて徳川家康に反抗する一向一揆が起こると、弟の正重が家康に与したのに対して、正信は一揆方に与して家康と対立した。そして一揆衆が家康によって鎮圧されると、徳川氏を出奔して大和の松永久秀に仕えた。久秀には重用されたようであるが、やがて久秀のもとを去って諸国を流浪する。

流浪の間、正信がどこで何をしていたのかは定かではない。有力説では加賀に赴いて石山本願寺と連携し、織田信長とも戦っていたともされている。こうして諸国を流浪した末、旧知の大久保忠世を通じて家康への帰参を嘆願した。やがて忠世の懸命のとりなしによって無事に徳川氏に帰参することとなった(帰参時期は諸説あって定かではない。早ければ姉川の戦いの頃、最も遅くとも本能寺の変の少し前の頃には正式に帰参が叶っていたようである。


表舞台へ
天正10年(1582年)、本能寺の変が起こって織田信長が横死すると、当時、堺の町を遊覧していた家康は伊賀越えを決意する。このとき、正信も伊賀越えに付き従っていたといわれている。その後、家康が旧武田領を併合すると、奉行に任じられて甲斐・信濃の実際の統治を担当した。

天正14年(1586年)には従五位下、佐渡守に叙位・任官された。天正18年(1590年)の小田原征伐後、家康が豊臣秀吉の命令で関東に移ると、相模玉縄で1万石の所領を与えられて大名となる。

正信が実際に歴史の表舞台に立つのは、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉死去の頃からである。この頃から家康の参謀として大いに活躍するようになり、家康が覇権奪取を行なう過程で行なわれた慶長4年(1599年)の前田利長の謀反嫌疑の謀略など、家康が行なった謀略の大半は、この正信の献策によるものであったと言われている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に従い、信濃の上田城で真田昌幸の善戦に遭って、遅参している。この時、正信は秀忠に上田城攻めを中止するように進言をしたが、容れられなかったと言われている。


初期幕政を牛耳る
慶長6年(1601年)からは、家康が将軍職に就任するために朝廷との交渉で尽力したといわれる。慶長8年(1603年)に家康が将軍職に就任して江戸幕府を開設すると、家康の側近として幕政を実際に主導するようになった。慶長10年(1605年)に家康が隠居して大御所となり、秀忠が第2代将軍になると、正信は江戸にある秀忠の顧問的立場として幕政を主導し、慶長12年(1607年)からは秀忠付の年寄(老中)にまでのし上がった。

しかしあまりに権勢を得たことは本多忠勝、大久保忠隣ら武功派の不満を買うことにもつながり、幕府内は正信の吏僚派と忠隣の武功派に分かれて権力抗争を繰り返すようになる。しかし家康の正信に対する信任が変わることは無く、慶長15年(1610年)には年寄衆からさらに特別待遇を受けて大老のような地位にまで昇進している。また、慶長17年(1612年)の岡本大八事件で一時的に武功派の巻き返しを受けたが、慶長18年(1613年)の大久保長安事件で大久保長安一党らを失脚させ、慶長19年(1614年)には政敵・大久保忠隣らを失脚させるなど、大きな権力を振るった。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも、家康に多くの献策をしている。しかし高齢のため、最晩年は病気に倒れて身体の自由がきかなくなり、歩行も困難であったとされている。


○ ここで織田信長の1579年をピンポイントで見てみます、伊賀、甲賀、武田、陸上での忍者群との関係、さらには、毛利攻めでの水軍(瀬戸内、西海では水軍が忍者のように発達した「水軍ベルト地帯」)の動きなどです、

織田信長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7

天正6年(1578年)11月6日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が、信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなった。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。天正7年(1579年)9月、荒木村重は妻子を置き去りにし、有岡城から逃亡。有岡城は落城し、荒木一族の大半が処刑された。天正7年(1579年)10月、に毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。1580年(天正8年)1月別所長治が切腹し三木城が開城する。また本願寺も、天正8年(1580年)4月、正親町天皇の勅命のもと有利な条件で和睦し、大坂から退去させた。天正8年(1580年)には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、そして岩屋城を落とし淡路を攻略した。

天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害され立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責すると共に、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

天正7年(1579年)、信長は盟友・徳川家康の嫡男松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じたとされる。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などである。いずれにせよ、徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれ激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は二人を自害させた(これに関しては異説もある)。


○ 私の観点では、これら登場人物(本多正信は始めは鷹匠として、後に奉行として甲斐、信濃の統治とあります)のほとんどが何らかの忍者群の影響を受けていると考えています、特に槍術(そうじゅつ)、服部半蔵(蜻蛉切(とんぼきり))を始め、本多忠勝(伊勢桑名藩初代藩主)の6メートルの柄の長さ(通常の長槍は4.5メートル)は何らかの伝達手段(遠距離での視認性の高さ、移動時の困難も相当のもの)も兼ねていたのではないかと考えています、伊賀、甲賀、伊勢、美濃、三河、信濃、甲斐、遠江、これらの地域を「忍群ベルト地帯」と呼びます、この時代では東海道を飛脚のように飛び交う(それも夜間に)のは朝飯前だったのかもしれません、


○ 伊賀、甲賀の忍群を上手く操る家康爺いに一抹の不安を表明したのが信康切腹事件の背景にあったのでしょう、さらにうがった考えですが、信長の長女の徳姫と、信長の仇敵今川義元の姪の築山殿の嫁と姑の争いに信康が巻き込まれた可能性もあるのではないでしょうか、それにしても、「築山殿の武田勝頼への内通」が理由だとすると、いっそう甲斐武田と伊賀、間を挟んだ甲賀の忍者の暗躍の影を読み取ることができそうです、手前味噌ですが、織田方の情報組織を家康爺いが担当し、信長の信頼を得るためには選択の余地の無かった信康、築山殿の扱いだったのでしょうね、信長が伊賀の忍群とキリシタンの両者に対してあと少し、忍者の情報収集力に肩入れしていたら、本能寺の変の光秀の動きも事前に察知できたかもしれませんね、下克上の前兆は在ったのではないかと考えています、今から見ると、あの時点の毛利の水軍も相当なレベルまで忍者化し、秀吉も手こずり、光秀への秀吉援軍指令が出たのでしょう、このような訳で、西の「水軍ベルト地帯」、東の「忍群ベルト地帯」、これら両者の一騎打ちが関が原の戦いだったように思います、


○ 以下の見解はルーツでの独特な見解ですが、信康事件の時期、1579年の当時、信康は20歳で亡くなるのですが、一方、井伊直政は1575年徳川家康に見出され、信康は直政の2歳年上でした、「衆道相手として深く寵愛したという。当時の武士階級で衆道は武士の嗜みともいわれるほど一般的であり、寵童あがりであることは出世への近道でもあった」、衆道については皆さんで調べていただくとして、信長と森蘭丸などのように、家康爺いと井伊直政、もう少し突っ込んで、「武田征伐の際に、信濃の反武田派の豪族が織田軍の元に集結するさまを見て「我々も骨を折った甲斐があった」と光秀が言った所、「お前が何をしたのだ」と信長が激怒し、小姓の森蘭丸に鉄扇で叩かれ恥をかいた(明智軍記)」、森蘭丸と明智光秀の関係、はたまた、井伊直政と信康の関係などもこのように錯綜していたのではないかと考えています、


○ さて、家康爺いの人生の2大事件(信玄との三方が原の敗走、信康切腹事件)の紹介が終わったので、いよいよ本論に戻ります、コミュニケーションとひとことで言いますが、この言葉は通常私たちが考える以上に複雑で広汎な影響力を持っています、コミュニケーションの充実と声高に叫ばれますが、コミュニケーションが不足し、信頼関係を構築できず、イジメへと繋がってゆくプロセスに焦点を当ててみます、コミュニケーションの深化の問題は各国独自の文化に起因した面が多々あるので、この場では、日本の進化してきた状況(品質維持レベルが高い)を取り上げ、さらに、それがイジメ、自殺(切腹、自害)への間接的な誘導となるメカニズムを分析してゆきます、


○ いよいよ、ルーツの9に向かいます。











ところで、最近の大阪駅です、ものすごいことになってます、
ビルが10棟以上、この2、3年で一挙に立ち上がります、
http://momloveu.com/oosaka-cloud/
激烈、大阪百貨店クラウド






超対称性ティトム理論:プロローグ
http://sites.google.com/site/supertitom/
超対称性ティトム理論 Super Titom Theory


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2008.04.19 09:10:40

From:  fatacy

○ 来週までお待ちいただこうと思いますが、いよいよ環境の世紀、日本の十八番がめぐってきました、くれぐれもイジメ抜きで、創理解で、地上の他の生命体への思いやりも込めながら、採るべき進路の話を続けようと思います、

食料安全保障:運用を開始した北極圏の世界種子貯蔵庫
http://www.news.janjan.jp/photo-msg/0803/0803240495/1.php

この貯蔵庫は北極圏に位置するノルウェー領スヴァールバル諸島中のスピッツベルゲン島に建設された。地球規模の災害にも耐え、食用作物の種子を保存できるように、北極から約100kmにあるこの島が選ばれた。施設は、山のふもとの洞窟に建てられた。

 施設の建設費用はノルウェー政府が出し、運営には世界作物多様性財団(Global Crop Diversity Trust)が当たるという。

 だがインドをはじめ世界各地の農業NGOからは、その目的が公平性を欠くとして、批判の声も上がっている。


○ 家康爺いの人生を取り上げた理由には、もうひとつの観点があります、あの時代、戦国時代の後、長崎の出島で海外との交易を続けました(朝鮮通信使などもありましたが)、鎖国政策が島国の内側に浸透し、究極の箱庭政策であり、ほとんどの国民が数キロ、稀に数十キロの範囲で生活し、人生を全うした(行商や隠密、参勤交代などの役人は別として)と思われます、限られた空間で生き抜く知恵に長けた江戸時代、まさに「葉隠れ」の世界だろうと考えています、一方、西洋は大航海時代で、インド、中国、インカなどの文明を吸収し、アフリカ、オーストラリア、アメリカ、などの大陸へ拡大し、一般にヨーロッパの人は、意識の構造に、パイオニア精神に満ちていた、そういう時代でありました、


○ この章の冒頭で取り上げた、世界種子貯蔵庫なども、私たちの届かない感性、例えば、宇宙のどこかで地球に似た星が見つかったら、その時これらの種子が役に立つかもしれない、こんな発想かもしれませんね、ともかく、その前に地球環境の崩壊を防がねばなりません、江戸の庶民の熱排出量を考えると、ひとつの手本になるかもしれませんね、もやは地球は箱庭になってゆくでしょう、かろうじて太平洋が酸素供給、熱の循環、生命の多様性の保持など防波堤になってくれていますが、今の子供たちの行く末を案じています、一生で排出を許可される二酸化炭素量が割り当てられ、それ以上は息をすることが許されない、そんな過酷な世界にならないよう、酸素の確保、地表の熱と水の循環、あらゆる叡智を集めて、先進国が乗り切る手本を示すべきでしょうね、究極のイジメは「これ以上息をすることを禁ずる」、ある人種がある人種に強要するようなことがあってはならないと考えています、


○ 箱庭の知恵を、取り入れられるところからは取り入れたい、でも、身分制度は良くないですね、個と中央管理センターとの物質や情報の経路を構築しなおす、すなわち、新しい環境主導の政治システムを作るべき時が来たみたいですね、


○ さてさて、イジメのルーツの本題に突入します、ルーツ、すなわち遺伝子形成の元はといえば、個人から集団へと各種のサイズで異なるのですが、まずは宗教でしょうね、古今東西、アニミズムから一神教へと、フリーメーソンなどの秘密結社に至るまで、人類の生存のミステリーと関連し、イジメになりうる最も強い動機です、家康爺いは信長のキリシタン伝道の歴史をつぶさに見聞し、自身も一向宗の手ごわさを体験しています、


○ 次は、地域の掟、民族(共有する歴史を守ろうとする)、宗教上の排除と受け入れには独特な儀式が関係することが多いのですが、地域の掟はその場所に生まれた、これだけが理由なので、排除の対象になると過酷な宿命になりがちです、地域性維持の行動の結果として、世襲制度が横綱格の重みがあります、話に聞くと国会議員の約半数が2世議員だとか、家康爺いの引いた路線に沿ってますね、職業と居住地選択の自由を狭め、からめ手で人権を奪う巧妙な手管ですね、教育を受ける権利の公平な機会均等なども見えないところで侵食されているのでしょうね、公的な(税金で給与が支払われる)職業への2世の就業を禁止すべきですね、はっきりと憲法で、例え3年でも、2年でも、


○ このような2大ルーツの次には、思想、経済的な地位、年齢、性別、家族やファミリーでの序列、普通に考えれば強制という形をとるイジメが見られます、教育的指導、体罰、無視、シカト、イジメを含んだ、関連言葉が並びます、私たち人間は、偏見と差別、あるいはステレオタイプ(思い込み)、これらで形作られたネットの上で暮らしているのかもしれませんね、集団の中での上下の位置取り、あるいは席取り、これら席に付属した配分を得るためには、チンパンジー社会のボス猿の構造は身近に多く見られます、


○ 排除、選別を目的とするイジメ、次に強制し、恭順を促すイジメ、最後に恐怖、それからの逃避としてみられるイジメ、生きとし生けるもの全ての現象にイジメが関わっています、まさに成長=イジメ、遺伝子の種の保存のためには必須の構造なのでしょうね、ボクシングに例えるとジャブに相当します、カウンターパンチの応酬になると、これは戦争ということになるのでしょう、


○ サワル、イジル、ナブル、シメル、ナジル、ホス、イビル、サラス、サス、モム、シゴク、・・・、ほとんどが物を扱うように人を扱っています、人の道具化が表現に顕れています、これは日本独特なのでしょうか、ユーモア、冗談といって会話の中に、これら道具化の表現と絡めて、頭を叩くなどの何気ない行動で、集団からの排除や帰属を暗に決めたりする行動、これなどは学校教育の初期、社会参加を実習している子供たちには過酷な試練になるケースが多々あります、テレビやゲームでの個人的な楽しみや笑いが、そのまま集団での道具化した楽しみや笑いに変質する場面があるからです、友達探しの中から自分の特質や集団での位置を手探りで知ろうとしている場面で、このような道具化による複雑な排除や、「逃避を強制する」などの悪意に出会うと深刻なトラウマになることがあるようですね、まさに心理的リンチ、罠としてのジョークと呼べば複雑さが伝わるでしょうか、


○ 個人の意思をないがしろにしようとするもの、戦争>殺人>暴力>言論の抑圧>不承不承の承諾>装った従順>気力の喪失>自暴自棄、もっと大きくはホロコースト(人種の抹殺)などから、症例として「練炭自殺」に至るまで、この包含関係に連なる現象は数千、数万の行為が関与しています、支配、強制としての圧力があるのでしょう、その圧力を乗り越えられるものだけが圧力を加える側になれる、この時の圧力のしきい値(圧力を加える側への立候補だったり=自棄になり飛び降りる直前の心理)が時代や地方、はたまた各分野で交錯するのでイジメの話は複雑怪奇になってしまうのです、


○ 喜怒哀楽を鮮明に打ち出せれば、お互いに人間関係で悩まなくて済むし、イジメ度も低いのでしょうが、水利権や労役などの負荷がかかったり、ましてや上野介を敵(かたき)にするような話になると、イジメ度もグングン上がります、高度老齢化社会に突入し、人々は十年、二十年先を心配(後期高齢者医療など)することが増えました、これなども配分に関係し、イジメ度を上昇させる大きな原因になるのでしょう、なんとかして、子供の世界はイジメ度の低い、喜怒哀楽をハッキリと打ち出せる世界を準備してあげたいもんですね、私は道徳よりも子供たちには、感情メリハリ教育を奨めたいですね、そして、教師が明確にイジメを含んだ笑い(属人性由来の笑いを排除)を制止し、単純なおかしさ、偶然による驚きに素直に反応できる状況を造るよう気配りする、まさに教師の品格が問われます、


○ 家康爺いにまつわる話題として、一風変わった女性の生涯を紹介して「ルーツの7」をクローズしようと思います、

ジュリアおたあ
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%8A%E3%81%9F%E3%81%82

ジュリア・おたあ(生没年不明)は、文禄の役(1592年 - 1653年)で朝鮮半島の平壌近郊より日本に拉致されてきた朝鮮人の女性。

戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、あるいは人質として捕虜となった李氏朝鮮貴族の娘とも言われるが、生年月日や実名・家系などの詳細は一切不明である。「おたあ」は日本名、「ジュリア」は洗礼名を示す。

生涯
日本軍に拉致されたのちキリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられる。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたと言われる。当時より既に絶世の美女として世にはなはだ名高く、主君行長が関ヶ原の戦いに敗れて、石田三成とともに京六条河原で斬首された後、おたあの類稀な美貌と才気を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に身柄を召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、家康の深い寵愛を大いに受けた。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し、聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされる。

しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放され、まず伊豆大島に、ついで八丈島もしくは新島に、それから最後に神津島に流罪となった。どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)。3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順を求められつつも断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。

おたあの最期についての詳細は不明であるが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎なる人物により、神津島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張され、いつしかおたあは神津島で死んだことになり、以来同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、おたあの慰霊祭が行なわれ観光資源となっている。しかし、実際には「日本発信」1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあが神津島を出て、大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、その後、さらに大坂から長崎に移っており、ジュリアおたあが神津島で死亡したことは否定されている。

駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は宝台院に移されている。


○ 今回のルーツシリーズは10を目途に終章にさせていただこうと考えています、終章に向けて、日本人を深く掘り下げることもあるかもしれませんが、世界中が日本の文化の効率性の高さ、日本人の知性のふくよかさに期待しているので、人権意識をベースにした新生日本人は、世界中から尊敬される民族になれるでしょう、悲惨な事件が頻発しています、暴力的で78歳のおばあちゃんから金品を奪おうとする若者もいます、会社や社会での昇進の条件に、「いかに磨かれ、開かれた人権意識を持っていたか」このことをスタートにすべきでしょうね、この言葉の中身は宗教的に中立で、必要以上に集団への献身も求めない、それでいて情報開示や共有の技術に裏打ちされている人物、このようなタイプの人を家庭内でも認めるようにすべきでしょう、


○ 心しなくてはならないのは、「ゴマすり」、滅私奉公の考え方自体、自分を幽霊化していて、それでいてCO2やアンモニアを出すので環境汚染以外の何者でもない、究極の地球資源浪費型思考だということです、忠誠心を売りつけたり、「そそのかし」から始まる間接搾取のうまさ、そこから導かれる情報経路を操作する暴力(言いたくはありませんが、組合専従職員という労働貴族)、大手を振って役所や企業、地方の社会でまかり通っている江戸五人組の情緒政策、裏に「つべこべ言うと刺すぞ」これらの心理的圧迫を含めたバイオレンスだけは丹念に切り取る努力が求められます(自衛隊の文民統制とはこのことです)、


○ 封建制度とは、人々の喜びの元である好奇心を封殺する仕組み、と呼べるのでしょう、くれぐれも、子供たちには創理解に続く喜びと笑い(アニメ映画のファイティング・ニモは名作ですね)をするよう導いてあげてください、学校教育現場によく見受けられる、素直な好奇心=成長を阻む過度な点数競争、こう理解しましょう、競争も受け入れる、競争による弊害も受け入れてキチンと対処する(負けても勝ちのルートを用意しておく、本来人生に勝ち負けは無い)、公平な競争を心がける、世襲は必要悪でも何でもありません、100年間の遺伝子進化の停止、浪費です、ダメですよ、ちなみに、ハンマー投げの室伏選手の親子は世襲ではありませんよ、公平な競争に勝利しています、公平かどうかで分けましょうね、それでは「ルーツの8」でお会いしましょう。






タイトル:男と女とクラインの壷
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男と女とクラインの壷


「3.5次元のゆらぎともつれ 12」
http://www.c-player.com/ac99328/message


「3.5次元のゆらぎともつれ 9」
http://www.c-player.com/ac99328/thread/1100072205456


「3.5次元のゆらぎともつれ 6」
http://www.c-player.com/ac99328/message/20080802?format=time


「3.5次元のゆらぎともつれ 1」、へはこちらから、
http://www.c-player.com/ac99328/message/200805?format=time


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2008.04.06 14:08:07

From:  fatacy

○ 少し寄り道をして、家康爺い(1543年 - 1616年)の話題をもう少し、先週NHKの「その時…」の番組の中で徳川四天王について取り上げていました、私の観点を織り交ぜて少し、

徳川四天王
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酒井忠次(1527年 - 1596年)
本多忠勝(1548年 - 1610年)
榊原康政(1548年 - 1606年)
井伊直政(1561年 - 1602年)

酒井の70歳を除いて、家康爺いより短命でした、かねてより家康爺いが意識していたかどうかは別として、闇(夜間)を支配できたからこそ覇権を摂ったと考えているので、これら4名の中で最も忍者の素養のある家臣が誰だったかを見てみます、後に大名や家老になったとしても負ければ首を取られた時代です、あらゆる勝つための技術(鉄砲、忍術を含め)を駆使し、利用したのは間違いないでしょう、


○ 本多忠勝は伊賀越えの立役者で、6歳年上の服部正成(服部半蔵)(1542年 - 1596年)とは懇親の関係だったのでしょう、そういう意味で最右翼です、

榊原康政は本多忠勝とは同年齢であったことから仲が良く、親友関係にあったという。また、酒井忠尚に仕えていた頃からの同僚である大須賀康高の娘を妻とした、このように振り返ると、彼らの育ち方からも本多と榊原、服部半蔵は一身同体とみてよいでしょう、

井伊直政
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF

井伊 直政(いい なおまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。井伊氏第24代当主。上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩の初代藩主。さらにその後に近江国彦根藩の初代藩主。

家康の家臣になるまで

井伊直政像(彦根駅前)永禄4年(1561年)2月19日、今川氏の家臣である井伊直親の長男として、遠江国井伊谷(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)で生まれる。井伊氏は先祖代々、遠江国井伊谷の国人領主であり、直政の祖父(または一族)井伊直盛は今川義元に仕えて桶狭間の戦いで戦死した。

父の井伊直親は、直政の生まれた翌、永禄5年(1562年)に謀反の嫌疑を受けて今川氏真に誅殺される。直親の死によって、新たに直親の従兄妹に当たる井伊直虎が井伊氏の当主となったが、実際に家督を継いでいたのは、当時まだ2歳の直政(当時の名は虎松)であった。その後、直政の生母が今川氏の家臣である松下清景と再婚したため、直政は井伊の姓を失い、松下虎松と名乗るようになる。

しかし、やがて井伊氏は井伊谷の所領を失い、まだ幼かった直政も今川氏に命を狙われる日々を送っていたが、新野親矩に救出されて、その後は養母である直虎に育てられた。天正3年(1575年)、徳川家康に見出され、井伊の姓に復帰させられ、虎松を万千代と改めて、井伊万千代と名乗るようになる。さらにかつての井伊氏の旧領である井伊谷を与えられる。

当時は、家康の小姓(児小姓)として男色(衆道)相手の間では最も深く寵愛されたという。

安土・桃山時代
直政は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立ててその名を轟かせた。天正10年(1582年)22歳の時にようやく元服を終え、万千代を直政に改めて、井伊直政と名乗るようになる。また、この年に松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。

その後、旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝や榊原康政の同僚となる。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、無事に滞在先の堺から三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、後北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕としての実力を発揮し、家康が武田氏の旧領である信濃、甲斐を併合すると、武田家の旧臣達を多数与力に付属され、山県昌景の朱色の軍装を復活させて井伊の赤備え(いいのあかぞなえ)と呼ばれる精鋭部隊の大将となった。また、同時に井伊谷4万石に加増された。

家康との衆道による関係
天正3年(1575年)のある日、家康は鷹狩りに出かけた。すると、家康はそこにいた少年のあまりの美しさに本気で惚れ込んでしまった。この少年こそが、後の直政(当時の名前は虎松)だったのである。その後、家康は直政がかつて桶狭間の戦いの後に自分と内通していた疑いで殺害された井伊直親の実子であることを知り、直政を自分の家臣にした。当時の武士階級で衆道は一般的であり、武士の嗜みともいわれ、寵童あがりであることは出世への近道でもあったが(その例として、織田信長(前田利家)・武田信玄(高坂昌信)・伊達政宗(片倉重綱)・上杉景勝など)、直政は、あまり衆道を好まなかった家康が唯一愛した男性だとも言われている。


○ いかがでしょうか、井伊直政に最もページを割きましたが、振り返ってみると、彼こそが、群馬県高崎、甲斐の武田、浜松市の井伊谷、近江国彦根市と本州太平洋側の覇者だったようですね、武田家臣団の多くを与力として与えられ、井伊の赤鬼の後ろ盾に武田忍群を従えた跡が見られます、本多、榊原の伊賀ラインとせめぎながら必勝の方程式を解いたのでしょうね、また、彼ら四天王の若かりし頃、三河一向一揆を乗り越えたことがモチベーションとして最大の結束力を発揮したようです、というようなわけで、四天王のなかで最も忍者の素養があったのは井伊直政とします、


○ 次に、江戸時代がいかに身分の固定力が強かったのかを井伊家を例に挙げて見てみます、

井伊氏
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江戸時代の彦根藩家は直澄、直該、直幸、直亮、直弼と5代6度(直該が2度。なお直孝が大老になったかどうかは賛否両論である)の大老職を出すなど、譜代大名筆頭の家柄となる。また、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中、彦根藩家は1度の転封もなかった。


○ 下々は五人組で統制され、大老職は井伊家を始め譜代大名から大老四家にほぼ独占され、身分の完全固形化(職業の世襲)が完成したのです、生まれた場所でそのまま死ぬことを求められ、活きている間の活動、すなわち職業(ほとんど頭脳を備えた道具でしかない)も生まれた場所に属していた、このような人生観、職業観が現代の私たちの中にも色濃く残っています、本スレッドのタイトルに使用したローカリズムの意味はここから出てきます、自分の属した社会や一族(ファミリー)への帰属心や忠誠心、トヨタ自動車などの企業もコアのコアを突き詰めると、ローカルな価値観しか残っていない、と思われます、商売はグローバリズムで行っていても、コアなガバナビリティ、アイデンティティ、究極の利益のもって行き場所は、三河の繁栄となるのでしょうね、社会の中での役割や活動全般を含めて、遺伝子と呼ぶのはこのような訳があります、ちなみに、この遺伝子が宗教と置き換えられる時代や地域も多々あります、


○ 三河一向一揆やキリシタン大名、長く続いた中世での宗教政治が戦国時代を経て封建制に至る過程で、負ければ死以外に無い厳しい時代が、稀にみる完全固形化された社会を形成しました、一方、ヨーロッパでは、宗教時代からルターの改革、イタリアルネッサンス、イギリスの議会制民主主義、産業革命、フランス人権宣言、このように11世紀までは人権の観点からは大差が無かったのに、13、14、15世紀の頃から、明の大航海時代や鉄砲伝来、ヨーロッパの大航海時代へとユーフラシア大陸の西と東の違い、例えとして都合が良いサイズなので、英国と日本、黒船の来航(ヨーロッパから西回りの文明)で出会うまで、見事なまでに反人権を極めた江戸の文化を今一度詳しく見てみましょう、


○ 小は五人組の意見に従わない等による村八分、さらには大きく藩命に従わないとの理由で切腹、これら大小織り交ぜたハラスメントが強烈に作用していた社会、現代社会でもまま見受けられるので、イジメを判定する時のツールを作ろうと考えています、「人を道具化しようとする動機」の強弱に関わっている、また生まれた場所と道具化を関連させ、差別(昇進させずコアに寄せ付けない)を根拠にした、差別の大本(おおもと)は曖昧であるべきである、だから差別が大手を振って融通無碍に人生や人民のありように大鉈(おおなた)を振ることができるのである、といった展開になると思います、


○ 来週はイジメとイヤガラセ、そして「ゆとり教育」という名のアマヤカセ(成長の本質、コアを見誤るとダラケてしまう)、ゆっくりとイジメの外周を彩るスター言葉にも触れてみます、「切り捨て御免」や「抜忍成敗」ほど苛酷ではないですが、成長期に長期に緩慢に作用すると、これが恐ろしくマイナス世界を深耕し、ドメスティックバイオレンスの種を内包してしまうケースなど、ゆっくりと取り上げますので、成長期に抱く自由への憧れ、反面、それが阻害されることの苦しさや恐怖、これらが未経験なのに、恐怖だけは体験してしまう皮肉さ、理解とはマリア・テレサのような深い愛を伴わないと在り得ないのかもしれませんね、教職に就く者は少なくとも恐怖心の専門家(Fear Therapist:フィアセラピスト)である必要があるのでしょう、無理解を源とする、疎外感、虚脱感、無気力、これらを克服する具体的な処方をコーチする仕事が教師の最低限の義務なんでしょうね、理解しあうことの困難さを分かり合うこと、ここから始めましょう、


○ 面白い記事を見つけました、

サムライ育成 さぶろう塾 −人間力を養う(葉隠)
http://www.36juku.com/rekishi/hagakure.html

『利発を表面にだす者は、多くの人に相手にされない。どっしりとしていなければ、様子や身なりも良くは見えない。恭しくて苦味があるような静かな調子が良い。』

利発とは、頭が良いとか回転が速いということです。

あまりにも優秀だったり賢すぎると人が敬遠してしまう。能力はいざという時に使えばいいことであり、普段は馬鹿を演じるくらいが良いのかもしれません。

「能ある鷹は爪を隠す」、 「大賢は愚なるが如し」という言葉で表されています。


『見かけが利発そうな者は、良い事をしても目立たず、人並みの結果では不足のように思われる。ちょっと見が温和な者は少しの良い事をすれば、多くの人が褒めてくれる。』


○ 上記の言葉は協調性、まさに和をもって貴しの発想ですが、一面では金魚鉢思考の危惧があります、限られた狭い空間で役に立つ処方なのでしょう、恐れることはなし、利発を求め、利発を研鑽してください、調和を優先すると、全体が沈む危険があります、調和を求めるに余り、足の引っ張り合いになっては、最もリスク対応能力の欠如した状態を招きかねません、「身分社会の儒教下の嫉妬」と名づけ、中国を含め東洋で熟成された思考なのでしょう、さらに、


○ 「葉隠」の精神を深めて見ましょう

葉隠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E9%9A%A0

「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山『武道初心集』とも共通するところが多い。

文中、鍋島藩祖である鍋島直茂を武士の理想像として提示しているとされている。

当時、主流であった山鹿素行などが提唱していた儒学的武士道を「上方風のつけあがりたる武士道」と批判しており、忠義は山鹿の説くように「これは忠である」と分析できるようなものではなく、行動の中に忠義が含まれているべきで、行動しているときには「死ぐるい(無我夢中)」であるべきだと説いている。この考え方は主流の武士道とは大きく離れたものであったので藩内でも禁書の扱いをうけたが、徐々に藩士に対する教育の柱として重要視されるようになり、「鍋島論語」とも呼ばれた。明治中期以降、新渡戸稲造によりアメリカ合衆国で出版された英語の書『武士道』が逆輸入紹介され、当時の大和魂など精神主義の風潮が高まると再評価されたが、新渡戸の説く武士道とも大幅に異なっているという菅野覚明の指摘がある。

また「葉隠」は、覚えれば火に投じて燃やしてしまうことが慣用とされていたといわれる。そのため原本はすでになく、現在はその写本により読むことが可能になったものである。これは、山本常朝が6、7年の年月を経て座談したものを、田代陣基が綴って完成したものといわれ、あくまでも口伝による秘伝であったため、覚えたら火中にくべて燃やすよう記されていたことによる。

「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」
葉隠の記述の中で特に有名な一節であるが、葉隠の全体を理解せず、この部分だけ取り出して武士道精神と曲解されあるいは解釈されている事が多い。実際、太平洋戦争中の特攻、玉砕や自決の一根拠だった事実もあり、戦後は「軍国主義を推奨」と評されたことも。現在でも左翼系の文化人などに、このような解釈をする者が認められる。

しかし山本常朝自身「我人、生くる事が好きなり(私も人である。生きる事が好きである)」と後述している様に、葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物では無い。葉隠の中には嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗を上手くフォローする方法、あくびをしないようにする方法等、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述が殆どである。また衆道(男色)の行い方を説明した記述等、近代人が勝手に想像している『武士道』とはかけ離れた内容もある。 戦後、軍国主義的書物と云う誤解から一時は禁書扱いもされたが、近年では生活に根ざした書物として再評価されている。

なお、戦後も葉隠を愛好した文学者に純文学の三島由紀夫、大衆文学の隆慶一郎がおり、二人ともそれに取材した作品を書いている。三島の『葉隠入門』、隆の『死ぬことと見つけたり』(いづれも新潮文庫)である。両作品は葉隠の入門書としても知られている(ただ、三島の葉隠に対する捉え方には問題があるという葉隠研究家からの指摘もある)。


○ いかがでしょうか、ひとことで、そういう時代もあった、ということでしょうね、今の子供たちには、宇宙から地球環境を見据えて議論してもらわなくてはならないので、多少の摩擦、弊害があっても、理解しあうマナーをコーチングし、理解の土壌が傷つかない限り、利発けっこう、ノーベル賞けっこう、特許もけっこう、としないと、調和(忠義、忠誠心)を押し付けると、人権抑圧のハラスメントを招いてしまいます、また、忠義、忠誠心では沈み行く日本丸、地球丸を押し留めることはできないとすべきでしょう、愚鈍を装い、「アホになれ」、とは最も利己的で、狡猾な行動とするべきです、「ボケの技」、出る杭として打たれたくない、ずる賢く出た杭のハシゴを隠す、こういうタイプ、官僚的な人物をトップにしてしまうと、永遠にアメリカの属国なのでしょう、アメリカが最も望んでいない日本の在り様だと自戒すべきでしょうね、


○ 折りしも国会では、三度(みたび)、財務省出身者を日銀副総裁に抜擢しようとしていますが、世襲の福田総裁では無理もないのでしょうね、「天下り」とは婉曲な世襲と理解すべきです、私たち日本人には、五人組(秀吉時代の)の相互監視と嫉妬、世襲を是とする遺伝子が備わっているので、ともするとこのような選択をしがちですが、ローカリズムの維持(自衛隊向けのモチベーションの維持のため)では必要な場面もあるのでしょうが、例えば強大なユダヤ資本との折衝等の場面では、世襲は機会選択の自由を狭め、生命力を弱めます、とはいうものの、大相撲のモンゴル横綱を受け入れる寛容さも見事なものがあります、江戸時代の庶民の生活も小さな春をいとおしんだ寛容さも遺伝子に組まれているのでしょう、ただ、成長期の児童の悲鳴を聞き漏らすわけにはいかないので、このように土木工事を続けています、「突き落とし殺人」の動機たるや、彼を間接的に自害(残された人生の時間の放棄)を強要した環境があったという事実を忘れることはできません、


○ 今週は筆が上手く運ばれたので、「ルーツの6」をクローズしたいと思います、では7でお会いしましょう。










ようやく、相互参照用のページをアップしました、
http://momloveu.com/jinken-and-localizm/
徳川家康 日本人の300年間の遺伝子



こちらは理科系の方に、
一月に終章を迎えたのに、おかげさまで連日3桁アクセス頂いています、
http://www.c-player.com/ac62953/message
fatacy フォーチュンテラー クラインの壷





超対称性ティトム理論:プロローグ
http://sites.google.com/site/supertitom/
超対称性ティトム理論 Super Titom Theory


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2008.04.02 21:23:21

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