サークルの紹介

 まだ知られていないポルトガルの魅力をお伝えします。
 今回は、リスボンとその周辺およびアレンテージョに行ってきました。

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 2007年2月 

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1394年 ポルトにおいてジョアン1世の三男として生まれる
1414年 父ジョアン1世とともにセウタの攻略に参加(21歳)
     アフリカ内陸部にいるというプレスター・ジョンの話や、
     黄金の国「レックス・メリ」、黄金を運ぶキャラバン隊の話を聞く
1415年 出征の武功でヴィセウ公に叙される
1416年 サン・ヴィセンテ岬(サグレス)に、「王子の村」を建設
     造船所、気象台(天体観測所)、航海術や地図製作術を学ぶ学校などを建設
     地図製作の権威ジェフダ・クレスケスを招聘し、既存の地図の集成を行わせた
1419年 派遣したジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコと
     トリスタン・ヴァス・テイシェイラ、マデイラ諸島発見
1420年 テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となる
1427年 ディオゴ・デ・シルベス、アソーレス諸島を発見
     以後、ゴンサロ・ベーリョ・カブラルらが探検
1434年 ジル・エアネス、ボジャドール岬を踏破
     同岬以遠の新規到達益 1/5 を得る旨、兄ドゥアルテ王が約す
1437年 周囲の反対を押し切って北アフリカのタンジールに派兵
     弟フェルナンド王子が捕えられる
1438年 ドゥアルテ王死去。
     特権の保証の見返りに、アフォンソ5世即位(6歳)
     前王ドゥアルテ王の妃(アフォンソ5世の母)レオノールが摂政
1439年 レオノールに反旗リスボン市民反乱、
     兄ペドロが摂政に。エンリケ支持する
1441年 ヌーノ・トリスタンとアントン・ゴンサルヴェス、
     ブランコ岬に到達
1443年 人質フェルナンド王子40歳で死去
1443年 アルギン湾に達し要塞を築いた
1444年 ディニス・ディアス(バーソロミューの父)、
     セネガル川とヴェルデ岬に到達。サハラ砂漠の南端に達する
     サハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなく
     アフリカ南部の富を手に入れる航路を確立
1452年 アフリカ南部からの大量の金でポルトガル初の金貨鋳造
     シエラレオネ沿岸にまで達した
1460年 「王子の村」において66年の生涯を閉じた
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1488年 没後28年、バーソロミュー・ディアス、
     アフリカ最南端の喜望峰を極める
1960年 没後500年を記念し、発見のモニュメント建立
1994年 ポルトガル政府からの贈り物として、
     ヘンリー航海王子公園、アメリカ・ニューベッドフォードに建設



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2007.02.24 23:08:11


 商業ブルジョワジーに支えられる海商王国は、新交易ルートを求める王権の国家事業として、大船団を大西洋に漕ぎ出す。

 以前の世界史では「地理上の発見時代」と呼ぶように、未開の地を見つける先進の欧州という視点でいわれていた。しかし今日では、欧州の視点だけでなく、東方やアジア、アフリカさらには「新大陸」南北アメリカが一体化を始めた時代として、最初のグローバリゼーションの時代と考えるべきである。


 いま一度、この大航海時代と海商王国ポルトガルを生んだ背景を整理してみる。

 シンボルは交易商品「香辛料」である。この「儲かる商品」が入る地中海ルートが、イスラム世界・オスマン帝国の膨張で閉鎖され他を探すしかなかった。

 レコンキスタを完了して絶対王政を進めたが、黒死病や農村の疲弊で不況に陥る。打開策として領土拡大をしたいが、国内には肥沃な土地がなく、背後は常に大国カスティリアの脅威がある。
 一方、アフリカには、内陸に金銀があり、沿岸には穀物がある。そのアフリカの海岸沿いに、あるいは地球球体説を信ずれば、大西洋に乗り出すことで、古来からの言い伝えや、旅人からの伝聞による黄金の国・東方世界に達するはずだ。造船技術の発展と航海術・操軍術を習得したいまが出航のときである。

 もちろん、精神的な拠りどころであるカトリックには、その布教と伝説の王プレスター・ジョンとの遭遇という大義名分もある。

 后である開明な母フィリッパが聞かせる東方やアフリカの話。黄金や宝石、香辛料に彩られた伝説に、耳を傾け目を輝かす王宮の兄弟たちが目に浮かぶ。

 1415年、艦船200隻・5万人でジブラルタル海峡の対岸セウタを襲った。これを大航海時代の嚆矢とする。

 セウタを占領したものの期待した内陸(サハラ砂漠のさらに奥地)の金は得られず、その後は穀物を得るための西海岸南下策がとられる。
 11代王ドゥアルテ1世の命を受け、37年二人の弟(三男エンリケ、五男フェルナンド)はタンジールを攻略したが失敗、フェルナンド親王がイスラム軍の人質となる。
 弟を奪還する条件のセウタ返還が呑めず、王は苦悩。時悪しくもペストに罹患して翌年悶死、その弟も43年フェスで獄死した。遺骸は城壁から逆さまにつり下げられた。従者たちは遺骸をもらい受けると、塩をふりかけ壷に入れて無念の帰国。52年バターリア修道院に埋葬された。

 この悲劇がエンリケを軍事から遠ざけた一方で、実業家エンリケを推し進めることになる。さらには弟を惨殺された怨念が、イスラム憎悪に拍車をかけたことも推測に難くない。

 母フィリッパが読み聞かせた本には、マルコ・ポーロ(写真)「東方見聞録」もあったに違いない

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2007.02.18 16:59:42

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 第9代王フェルナンド1世はペドロ1世の子。美男王と呼ばれるが、なぜかやることが乱暴で、危うく国を滅ぼしかけた王である。いや男前ゆえの奢りか。美貌王は無謀王。

 即位して数年後、カスティリアで内乱が起きる。王(こちらもペドロ1世だ。ややこしい)を、腹違いの弟が暗殺して次王として即位したのだ。
 ここで美男王は隣国アラゴンと結び、王女レオノールと婚約し、王位継承権をかざして侵略をする。しかし返り討ちに合い、アラゴン王女との婚約は破棄され、同じ名前のカスティリア王女レオノールと婚約をする。
 その傍ら平民出身で人妻のレオノール・テレスに横恋慕し、略奪婚。またもレオノールだ。ますますややこしい。

 翌年、カスティリアの王女コンスタンサ(暗殺された前王の次女)を妻にしていたイングランドのランカスター公ジョン・オブ・ゴーントと同盟を結び、再び戦争。またしても敗北。9年後、懲りずに再戦。完敗を喫し、カスティリア王フアン1世の後妻に、自らの一人娘王女ベアトリスを差し出すはめになる。
 自分が亡くなった場合、王女ベアトリスが王位を継ぐが、子孫がない場合はポルトガル王位がカスティリア王に渡ってしまうという契約付きであった。

 その狙いどおり、1383年10月に美男王は嫡出男子のないまま他界した。王女がポルトガル女王として宣誓し、その母レオノール・テレスが摂政となった。ところが、この婚姻と王位継承の契約を画策したアンデイロ伯爵が、カスティリア側であるばかりでなく、摂政レオノール・テレスと出来ていた。閨房による専制政治とそれへの反乱が始まると、今度はカスティリアが侵攻してくる。

 この亡国の危機に際し現われたのがジョアン王子である。王子といっても第8代王ペドロ1世と妾妃テレサ・ロウレンソとの間に誕生した庶子。遠ざけられ(あるいは身の安全のため)亡命していた。エヴォラでアヴィス騎士団の団長を務め勢力を築き、反王妃派に支持され防衛軍を指揮する。カスティリア軍をリスボンで迎撃して、フアン1世の野望を粉砕した。
 救国の英雄というだけでなく、黒死病以来30年以上続いた暗い時代の闇を薙ぎ払ったスーパースターの登場だ。1385年、ジョアン1世としてアヴィス朝を開く。

 新王朝の幕開けはコルテス(身分制議会)で行なわれた。貴族と教会と市民(ただし大商人やギルドの親方)の三者において、国王を選んだということは、大貴族(親カスティリア)から商業ブルジョワジーが権力を奪うという市民革命の先駆けともいえる。

 新しいヒーロー、ジョアン1世はカスティリア王国の再攻を防ぎ、その背後の大国フランスに対抗して、イングランドと同盟する。その証としてランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(この貴族もしたたかである)の娘フィリッパを妻に迎える。そう、シントラでみたカササギ王とそのパートナーの誕生である。

 二人はカスティリア王国と和睦を結んで、背後の脅威をなくして、正面に広がる大海原をめざして錨を上げる。
 海洋大帝国ポルトガルの基礎を築き上げた王は、いまもなお『大王』と呼ばれ国民の誇りであり続けている。



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2007.02.10 16:08:09


 レコンキスタの完了で、国内の経済が大きく進展した。軍事力による略奪経済から、生産と商業の経済に発展する。貨幣が広く流通して農村も栄え、南部が拓けてくる。ここから首都がコインブラからリスボンに移ることになる。

 ミーニョ川・ドーロ川間には貴族や教会の荘園が広がり東伸する。ドーロ川・テージョ川間には、平民主導の防衛力を持つコミュニティが大きくなる。国王が領主として新たに植民することで土地が開墾されていく。どちらの村もコンセーリョと呼ばれる共同体である。
 テージョ川以南は、国王から譲渡される形で騎士団領が広がっていく。テンプル騎士団(ベイラ・バイシャ、モンデーゴ川以南)、ホスピタル騎士団(アルト・アレンテージョ)、カラトラヴァ騎士団のちのアヴィス騎士団(エヴォラ周辺のアレンテージョ)、サンティアゴ騎士団(セトゥーバル)などがそれぞれの土地を経営して大土地所有制の基礎を固める。


 海外との交易がめざましく拡大したのもこの時期である。
 古くから、ポルト、リスボンの港はフランドル(いまのオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部。フランダースと同意)やイギリス各地と交易を行なっていた。ワイン、塩、コルク、ドライフルーツなどが輸出品であり、輸入品は毛織物、武器、豪奢品である。干鱈も北欧からの魅力ある品である。

 交易商人たちは商業ブルジョワジーとして一大勢力となる。国王も免税や造船の優遇(木材がタダ)などで保護した。ジェノバ商人が進出し始め、ブルジョワジーと対立しながらも、優れた造船技術や航海技法や操軍術を生かして、ポルトガル海軍の創設に大きく参与した。海商王国はここに萌芽する。


 光が一気に翳る時がきた。
 1348年秋、黒死病(ペスト)が全欧を覆った。ポルトガルでも人口の3割以上が亡くなったといわれる。生産人口の減少で労働賃金が上昇、小作農の都市流入が起き、農村が疲弊する。賃金は上昇したがそれ以上のインフレが襲い、都市生活者も困窮する。
 地主は病気や死の恐怖から、土地を教会や修道院に寄進する。結果、国庫の税収が大きく減ることになる。増税あるいは悪貨鋳造という泥濘に嵌り込み、全欧が不況・社会不安という負の循環を始めた。


 ここで打開策を焦る王の失政で隣国を巻き込む内戦が起きる。その結果、まるで目のなかった青年王子がクラウンを戴くことになる。
 
 翳ったポルトガルに再び明るい光明がさしてきた。その光は、中世の暗黒を閉じて、近世の扉を開ける強力なエネルギ―を持っていた。


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2007.02.07 19:38:20



 今回のファムツアーでともに廻ったソトコト(発行・木楽舎)さんが、3月号(2月5日発売)で記事を載せています。
 「ポルトガルのいい塩、いい樫、いい葡萄」(pp.122-125)なのですが、LOHASといえばこの雑誌という称号に相応しい素敵なコラムが載っています。

 ツアールートにない塩田やマーケットを精力的に廻っていました。コルクについては、わたしもこの旅がきっかけで大変興味を持ったアイテムで、いずれ記事にしたいと考えています。ただしこのようには上手く書けないな、たぶん。

 写真もまたすばらしい。撮影の手際がよいのだろう。知らぬ間に綺麗なシーンを写している。切り取るという表現でなく、掬い上げるような写真。小さなカットですが、テージョ川の一枚。荒天の中よく撮れたと思う。その掬う一時、マリア様が微笑んでくださったのだな。

 コラムも写真も、食事をだいじにだいじに、LOHAS流に収めている。同行のわたしは、ただ単に胃袋に収めていただけですけど。

 ぜひご一読ください。




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2007.02.07 19:32:39

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(地図:「地球の歩き方 ポケット16」綴じ込みMAPに加筆。
 青線は河川。北より、ミーニョ、ドーロ、モンデーゴ、テージョ川)

 711年、西ゴート王国の政情不安につけこんだイスラムが侵攻、数年間のうちに半島を支配下に置く。キリスト教国が、この失地を回復するために騎士団を派遣するのが、レコンキスタ(国土回復運動・葡ではルコンキシュタ)である。

 西欧キリスト教国側から見れば義軍の聖戦であり、聖地エルサレムをイスラムから奪還することを目的にした遠征「十字軍」と同意である。同じころ、東欧には東方十字軍、バルト海沿岸では北方十字軍、キリスト教異端派にアルビジョワ十字軍等がある。対立側から見れば侵略戦争である。


 レコンキスタの第1期(8-11世紀)は、イベリア半島北方カンタブリア山系のアストゥリアス王国(地図中 青色)、レオン王国(紫色)、カスティリャ王国(緑色)と、東方ピレネー山系のナバラ王国(橙色)、アラゴン王国(桃色)の双方向から、イスラムを押し下げようとした。

 第2期(11-13世紀)。ナバラ王国の伸長と分裂を経て、カスティリャ王国(初代フェルナンド1世)が強国になりレオン王国を併合したのち、テージョ川以北を平定。二代王アルフォンソ6世下でイスラム・ムラービト軍と決戦に及ぶ。
 ここでブルゴーニュ(パリの東南、リヨンの北の地域。ゲルマン系ブルグント族の地。クリュニー修道院やシトー修道院などが創設された宗教拠点。15世紀後半ヴァロワ朝フランスに併合される)の騎士が、西方十字軍として参戦することになる。
 武勲により騎士ラインムンドが、カスティリャ王国の王女ウラッカの婿君になる。また騎士エンリケ・デ・ボルゴーニャは、同異母妹テレサを得るとともに、ドーロ川の北側からポルトゥカーレ伯領を、南側からコインブラ伯領を切り出して任じられる。コインブラだけではイスラムの北上を止められなく、ポルトゥカーレの力を合わせる必要に迫られたからである。
 ローマ時代から異なる行政区分とされてきた二領を統合したことの意味は重い。レオン・カスティリャ王国は領地奪還と自領安定のため、エンリケに新しい区割りを安堵し、秩序を求めたことにほかならない。


 エンリケ・デ・ボルゴーニャの死後、妻テレサ(アルフォンソ6世妾腹王女)が摂政として、ポルトゥカーレ(+コインブラ)を統治した。一方、レオン・カスティリア王国も当主交代をして王女ウラッカが女王になるが、企みを持つ大貴族トラヴァス家は、アルフォンソ7世(騎士ラインムンドとウラッカの息子)を引き立て、それと対立する。キリスト教勢力からも、野心を持つサンディアゴ大司教が現われ、これに加わった。トラヴァス家は、当主の息子フェルナン・ロペスをテレサと結婚させ、レオン・カスティリア王国によるポルトゥカーレの再分離による併合を図った。

 こうして、アルフォンソ7世を立てたトラヴァス家+サンディアゴ大司教 vs ポルトゥカーレ貴族+領内司教の戦争となる。領内の焼き討ちという暴挙に出るサンディアゴ大司教に屈したフェルナン・ロペス、テレサを見限ったポルトゥカーレ貴族たちが、錦の御旗に掲げたのが、エンリケ・デ・ボルゴーニャとテレサの間に生まれた、アフォンソ・エンリケスである。

 1128年、聖人サン・ジョアンの日、エンリケスはレオン・カスティリア王国軍を敗走させ、新しい王国の誕生を期待させた。ポルトゥカーレ貴族たちは、北からの脅威を跳ね除け、南進しイスラムを押し戻すレコンキスタを全うするには、再びコインブラと結束することが最上だと判断したのである。
 アフォンソ・エンリケス率いるポルトゥカーレ軍は、イスラムだけでなくアルフォンソ7世のレオン・カスティリア王国軍とも戦い勝利を収め、独立を宣言する。1143年、ローマ教皇の仲介でポルトガル王を認めさせ事実上建国を果たし、1179年、エンリケスはローマ教皇アレクサンドル3世と封建的主従を結び、ポルトガル国王とその領土が正式に認められた。


 エンリケスはアフォンソ1世として即位(ブルゴーニュ朝)、レコンキスタを進める。リスボン(1147年)、エヴォラ(1159年)を攻略、次代の王たちも勇敢に戦う。1249年、アフォンソ3世によって残された飛び地を平定、ポルトガルはレコンキスタを全うした。
 1297年ディニス王の時代に、カスティリア王国と国境を画定。カスティリア王国はさらに時を要して現在のスペインになっていくが、ポルトガルとの国境線は変わることなく現在に至っている。いかに往時、レコンキスタを果たしたポルトガルの力が強く、カスティリア王国(ヒスパニア、スペイン)が手間取ったかがわかる。中央ヨーロッパも十字軍を繰り広げイスラムを駆逐する最中である。


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2007.02.04 23:35:20

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 ジェロニモス修道院に入る前に。

 
 ここで、なぜ他に先駆けてこの時代の幕を切って落とせたか、もそうだし、どうやってイベリアの姉妹ともいわれる隣大国スペインと棲み分けてこられたかなどを改めて考えておきたい。

 キリスト教を根幹とするヨーロッパ世界においては、イベリア半島は同じユーラシア大陸にあっても異質とされてきた。地理的にピレネー山脈でヨーロッパ世界と隔てられているゆえだ。ピレネーはアフリカの始まりだとフランス人はいう。また、イスラム侵略の防壁とも呼ばれたのがイベリアでありピレネーである。この地域は、イスラム世界との関係を抜きには何も語れない。
 さらに言えば、ポルトガルはヨーロッパには珍しい単一言語の国である。一方スペインは、異なる言語を持つ中世王国が、統合を繰り返して成立した複合国家である。この2国間だけでなく、取り巻く列強との関係の中で、統一大イベリア国もありえたし、諸王国の別の組合わせで国家ができていた可能性もあった。そのなかで併呑されずにポルトガルという国が独立を保ってきたことを考えてみる。


 先史時代この地では、北アフリカからイベロ族、ピレネーを越えて北部からケルト族が入ってきて混血した。その後、版図を地中海世界から全欧州に広げたローマ帝国の時代となり、紀元零年ころには、北部を流れるドーロ川を境に以北をガラエキア(首都ブラカラ)、以南をルシタニア(首都エメリタ)という二分した属州になる。ルシタニアはのち、2つの行政管区(スカラビスとパックスユリア)に区分される。現在も残る水道が敷かれるのもこの時代である。また集落の都市化が進んだのちは、都市を結ぶ縦断道が作られる。ドーロ川とテージョ川で分かれていた南北3地域がつながることになり、国の基幹になっていくのである。ヒスパノ・ロマーノと呼ぶ混血民族の成立である。

 遊牧民族の南下がきっかけで起きたゲルマン民族大移動で、イベリア半島も5世紀にはゲルマンによる侵略・支配時代に入る。まずは5世紀にスエヴィ王国(首都ブラカラ)が生まれ、6世紀には代わって西ゴート王国が侵入してきて半島を征服するようになる。ただしこのゴート族による占領策はうまくいかず、ヒスパノ・ロマーノをゲルマン化できず、しだいに政情が不安定になっていく。

 そのため、8世紀にイスラム軍が侵略を開始すると、民衆はイスラム民族をゴート族からの解放軍として迎え入れてしまう。また侵略側も、改宗あるいは納税でヒスパノ・ロマーノを囲い込むことに成功し、すぐれた文化をもつ彼らとの同化を進めて長く支配下に置いた。最終的には、15世紀末までイスラム時代が続くことになる。七百年にも及ぶ歴史が、建築、芸術、農業など多くの分野でその影響を残す。例の、al-で始まる言葉が多い由縁である。

◆参照 「ピレネー山脈」(2007年2月4日(日) 06:00 UTC の版)『ピレネー山脈<Wikipedia』
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%83%BC%E5%B1%B1%E8%84%88

◆参照 「イベリア半島地形図」(2007年2月4日(日) 06:00 UTC の版)『ポルトガル・スペイン(広域)<世界編<Library(書庫)<Ariesさんのホームページ 地図・山・3D-CG』
http://www.asahi-net.or.jp/~xj6t-tkd/index.html


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2007.02.04 15:30:20

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