カジュアル哲学
オーナーオーナー:和寇の末裔   メンバー数メンバー数:13人   最近1週間のメッセージ数:6通
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 従来の思弁的哲学を踏まえながら、日常の諸身辺の問題について、哲学的考察を加えようとするサ−クルです。いわば普段着の哲学です。

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 「貧しい者、弱い者、苦しんでいる者は幸いである。それは天国に近いからである」
 これもキリスト教の訓えである。こういう人達は、神に祈りを捧げ、それによって心の安静を得られるから幸せなのだ、ということであろう。その真偽は別としても、これも逆説である。
 宗教に何故「逆説」が多いのか、この問題は後で論ずることにして、他の分野での逆説を見てみよう。
・政治における逆説
 「敵の敵は味方」という言葉がある。これはケ小平の言葉だと思うが、敵をやっつけている敵であるから、我がほうにとっては、味方としての働きを果たしてくれるから、ということで、自然の論理であって、これは逆説ではない。
 むしろ「滝の味方は味方である」というほうが逆説らしい。
 こんな言葉はないと思うが、その理由を説明しよう。
 チベットの例を上げてみよう。
 チベットで暴動が起ればも、この暴徒は、中国政府にとっては敵である。この敵を、仮に、インドに亡命しているチベットグル−プが支援したとしたら、チベットの暴徒にとっては味方になるが、暴徒への支援は、中国政府にとっては、更なる暴徒弾圧教化の格好の口実になるから、実質的には味方としての働きになるのである。
 「敵の味方は味方」という逆説は成立するのである。


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2009.06.30 10:55:27

 「往生する」というのは、この場合、極楽往生という意味であろう。
 仏教の説く「因果応報」の訓えによれば、善人が往生するのは当然のことであるが、悪人は地獄に落ちるはずである。しかし、「悪人なお往生す」というのは逆説である。
 その理由は、悪人であっても、心から自分の非を悔い、仏に救いを求めれば、往生できるということである。
 煩悩を脱却し切って、「空」になることを「悟りを開く」というが、これも逆説である。世間的には、努力して知恵を働かせて富を得ることが幸せにつながる道であるとされている。
 仏道では、逆に、このような欲望を一切断ち切って、「空」になることこそが幸せだというのだ。これは完全な逆説である。
 キリスト教の「隣人愛」も同じだと思う。
 自己愛は、自然であり、当たり前であるが、自己愛だけでは、広がりはない。閉鎖的である。
 皆が「隣人愛」に徹すれば、「愛の輪」が広がり、その輪のなかに取り込まれて、自己愛も満たされることになる、というのが「隣人愛」の考え方ではないかと思う。これは明らかに逆説である。


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2009.06.29 12:10:56

 本稿では、このような「二律背反」や「矛盾」は、「逆説」の範疇から外すことにする。
 「逆説」とは、ある命題について、通常定説と考えられてい通説とは全く逆であるが、筋が通った正論である説である、と定義して論述することにする。
 「逆説」は通説と対立するものである点では、「二律背反」と同じであるが、「二律背反」は両論とも正しいとみとめられているのに対して、「逆説」は通説としては認められていない説を主張するものである点が異なるのである。
 「逆説」とは、命題を普通とは逆に考えることだ、という説もある。
 たとえば、「警察のおがげで犯罪が解決される」というのは普通の解釈だが、これを逆に「犯罪があるお陰で警察は飯が食えるのだ」と考えることだ、というのである。
 部分的にはそう言えないこともないが、そう言ってみたところで何の意味もないないし、何の役にも立たないことで、こんなことは「言葉遊び」にもならない愚説であると思う。
 「逆説」の定義としては、上記の定義が正しいと思う。
 「逆説」と言うっても、いろいろな分野で唱えられているから、その分野別に、具体例で考えてみることにしよう。
・宗教における逆説 
  宗教の説く教義や思想には逆説が少なくない。
 仏教の言葉に「善人なお往生す、いわんや悪人においておや」というのがある。


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2009.06.28 08:05:07

 いま一つ例をあげてみよう。
 「かねが敵(カタキ)」と「かねがものをいう」という格言がある。
 前者は、かねにまつわって、様々なトラブルや苦労に苦しめられるから、厄介なものだということ。後者は、かねさえあれば、なんでも可能になるということである。
 一時大成金になった、ライブドアのホリエモンは、「かねさえあればも人の心も買える」と嘯いていた。人の心を買ったのでなく、人の行為を買ったに過ぎない、ということに気が付かなかったらしい。
 それはともかくとして、この二つの格言は、正反対のことを言っているが、いずれも皆が認めていることであから、これも「二律背反」の例である。
 このように、逆説=パラドックス=二律背反というように説明が展開される場合が多いが、また、パラドックス=矛盾と考える向きもある。
 「全能のパラドックス」という話がある。
 「全能者は、自ら全能であることを制限し、全能でない存在になることは可能か」
 これに対して「NO」と言えば全能者でないことになるし、「YES」なら、本人自身が全能者でなくなることになる、というのである。
 「全能者は自分では持ち上げなれない重さの石を造ることができるか」という問題も同じである。
しかし、この二つの話は単なる「矛盾」話てあるに過ぎない・


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2009.06.27 09:39:05

 「格言」で例をあげてみると、典型的な「二律背反」とは次のようなのである。
 「情けはひとのためならず」という格言は、情けを掛けるのは他人を助けるためだけと思うのは間違いで、それが廻りまわって自分のところに廻ってくることにもなるのだ、という意味である。必ずそうなるとは限らないが、そういうつもりでやれ、という訓えであろう。これは正しい。
 これとは別に「情けが仇」という格言もある。
 なまじ、情けを掛けたために、それが裏目にでてまずい結果になってしまう場合があるから注意しなさい、という意味である。確かに、こういう場合もあるから、これも正しい格言である。
 この二つの格言は、全く逆のことを言っているのであるが。世間では両方とも認められている。「情けを掛ける」という行為には両面があるからである。
 こういうものが「二律背反」ということであると思う。それは単なる見解の相違ということではないのである。
 こう考えると、前述のカントの上げた四つ例は、すべて見解の相違と言うべきもので、「二律背反」の例としては不適切なものであると言えよう。各例とも定立と反定立の両方とも正しいと思う様な性質の例ではないからである。


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2009.06.26 06:56:32

パラドックスの範疇には、「二律背反」も含まれている。
 相互に対立する二つの命題、すなわち「定立」と「反定立」が、対立したまま、優劣なく、併列して主張されることである。
 カントは、これを、主観から独立して、世界を捉えようとするときに、理性が陥る自己矛盾であるとした。
 彼は、二律背反の四つの例をあげている。
1定立・・世界は時間的にはじめを持ち、空間的に固定されている
 反定立・・世界は時間的、空間的に無限である
2定立・・世界は単純な原子から成る
 反定立・・世界は無限に分割できる
3定立・・自然法則的な因果律のほかに、自由による因果律がある
 反定立・・自由はない、世界は一切が自然法則によって生起する
4定立・・世界には絶対的な必然的な存在が属する
 反定立・・世界の内外には絶対的に必然的存在はない
 これについて、カントは、1と2は、人間の認識は、イデ−の影を見ているようなものであるから、両方とも偽であるとし、3と4につていは、両方とも成り立つとした。
 これらは、現在では、自然科学、社会科学の発展によって解決済みの問題である。
 しかし、この四つの例は、「二律背反」とは違うと思う。単なる見解の相違に過ぎないものである。
 二律背反とは、単に見解の相違ではなく、正反対の考え方であるが、対立するものではなく、客観的に見て、両方とも正しいと認められる場合を言うのだと思う。



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2009.06.25 12:16:55

・逆説とは何
 逆説(パラドックス)は、古代ギリシャ時代に遡る用語である。
 当時のアテナイには、「ソフィスト」が沢山いて、広場に出て議論を戦わしていたから、虚偽論法や詭弁も横行していたのであろう、と思う。
 「逆説論」という言葉は多義であるが、その中の一つに「循環論法」というのがある。一つの例を紹介しよう。
 「神が存在するということは聖書に書いてある」
 「聖書は神の言葉である」
 「故に神は存在する」
 「神の存在」をAとし、「神の言葉」をB、「聖書」をCとおくと、最初のフレ−ズは、A=C、第二のフレ−ズは、C=B、第三のフレ−ズは、B=Aであるる。
これは、一見正しそうにみえるが、Aを論証するためのBが、Bを論拠としてAの証明に用いられているという、虚偽論法なのである。
 いまひとつ「嘘つきのパラドクス」を紹介しよう。
 クレタ人であるエピメニデスが「クレタ人は嘘つきである」と言った。これは「嘘」である。なぜなればエピメニデスは、クレタ人だからだ。
これは、「多くの」とか「大抵の」とかの接頭語を頭につければ良いのだけのことで、その意味では出来のよくない「たとえ話」であろう。


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2009.06.24 10:46:37

 「不適切な行為でした」という言葉は、前述の三つの心理的要因に加えて、次の四番目の要因を追加する必要がある。
4日本人の忘れっぽさへの期待
 「人の噂も七十五日」という諺があるが、「不適切な行為でした」と、その場は繕っておいて、日本人の忘れっぽさで、間もなく忘れてくれること期待する心理である。
 この特性は、個人だけでなく、新聞などのメディアを含めて、大いにあると思う。
 他民族は、そうはゆかない。
 中国人も朝鮮人も、日本のかっての侵略行為への恨みはなかなか忘れない。「歴史認識」と称していつまでもうるさく言うのも、日本人からすれば「しつこ過ぎる」と思うが、彼等にしてみれば、わすれ得ない、忌まわしい史実なのだ。
 ある日本人の国連職員が、「日本人が国連で働こうとするなら、どんどん、意思表示をしないと、置いてきぼりにされ、相手にされなくなる」と言っていた。
 これまで述べてきた曖昧な姿勢は、日本人特有のものであり、国際的には通用しない。
 国際人の最高のたまり場である国連では、こういう日本人なら、忽ち蚊帳の外に放り出されることになるのである。
 その意味では、日本人はまだまだ国際人になりきっていないのだと思う。
 


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2009.06.21 12:55:22

政治家がよく使う「曖昧語」のひとつに「・・・はいかがなものか」というのがある。
 これは、はっきりいえば、「私はその考え方に賛成できない」とか「私は反対である」ということである。それを婉曲に表現したものである。
 これがよく使われるのは、与党内で他の同僚あるいは他グル−プの考え方を批判する場合が多い。はっきり「タメ」ということを遠慮するのである。
 その点、野党は攻める立場だから「いかがなものか」などと生ぬるいひとは言わない。土井たか子のように、ずばりと「駄目なものは駄目」というような言い方になる。共産党などは、攻撃一本だから、こなんな言い方は絶対にしない。
 これを日本人の「和」を尊ぶ精神のあらわれである、なとと言う意見があるが、間違いだと思う。
 その心理は次の四つである。
1自己防御意識
 決め付けるようなことを言って、「ことを荒立てたくない」とか「ひとに嫌われたくない」「ひとに怨まれるようなことは言いたくない」という「事なかれ主義」
2周囲に対する配慮
 「人前で恥をかかせられない」「なあなあで済ませたい」「相手の感情を害さないようにする」という周囲に対する配慮
3阿吽の呼吸
 全部いわなくても分かってもらえるばずだ、という思い
 他に対してのこのような曖昧な姿勢が、自分自身のトラブルに対する曖昧な姿勢につながるのである。その一つの現象が「不適切な行為でした」といういい加減な表現になるのだ。


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2009.06.20 09:41:37

「朧」という言葉がある。「はっきりしない」とか「ぼやけている」という意味だが、この語感は「曖昧」につながる。
 日本人は、この「朧」という風情が好きらしい。
 歌人、岡本かの子が「朧」という随筆を書いているが、その一節を引用してみよう。
 "歴代の文学に朧を讃へたものが多い。清少納言が枕の草紙に「春は朧、ようやく白くなり行く・・」といひ、兼好が徒然草に「月は隈なくをのみ見るものかは」といひ、西鶴が「笠がよう似た菅笠に」といふ。お夏清十郎の情趣も「朧」の骨子を立てている。上田秋成の雨月物語に至って「朧」の美は極致に達する"
と「朧」の風情をこよなく賛美している。
 これは、あくまで「風情」の問題であり、人間間をコミニケ−トする言葉とは違うが、日本語の曖昧性は、この「朧」嗜好に通じるものがあるように思う。
 しかし、この日本語の曖昧性は、日本語を学ぼうとする外国人にとっては大変困ることなのである。
 「いいです」「結構です」という言い方は日常的に用いられるが、それが「YES}を意味する場合もあるし、「NO」の場合もあるのだから、外国人にとっては、ややこしい限りであることはよく分かる。
 日本人なら、「いいですね」「結構ですね」と語尾の「ね」の有無で、「ね」が付けばYES、つかなければ、NOだと判断するが、外国人には分からないであろう。


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2009.06.19 10:57:36

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