カジュアル哲学
オーナーオーナー:和寇の末裔   メンバー数メンバー数:13人   最近1週間のメッセージ数:5通
サークルの紹介

 従来の思弁的哲学を踏まえながら、日常の諸身辺の問題について、哲学的考察を加えようとするサ−クルです。いわば普段着の哲学です。

2007年7月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
前月 翌月
new 最新拍手
メッセージアーカイブ
2010年
├ 3月
├ 2月
├ 1月
2009年
├ 12月
├ 11月
├ 10月
├ 9月
├ 8月
├ 7月
├ 6月
├ 5月
├ 4月
├ 3月
├ 2月
├ 1月
2008年
├ 12月
├ 11月
├ 10月
├ 9月
├ 8月
├ 7月
├ 6月
├ 5月
├ 4月
├ 3月
├ 2月
├ 1月
2007年
├ 12月
├ 11月
├ 10月
├ 9月
├ 8月
├ 7月
├ 6月
├ 5月
├ 4月
├ 3月
├ 2月
├ 1月
2006年
├ 12月
├ 11月
├ 10月
├ 9月
├ 8月
├ 7月
├ 6月
更新日順発言

2007年7月

更新日順スレッドを表示 スレッドで表示 新着順に表示
新規発言
サークルに参加してコメントを投稿しよう!

・政策の凡庸化
 民主主義政治は、皆の意見を徴して、合意の下に政策を決定するというのが原則である。最高の合意は「コンセンサスを得る」つまり全員一致という形だが、「多数決」も合意のうちに入る。議会の審議では、党内では「コンセンサス」を得るまでやることが多いが、他党との討議になる委員会や本会議では「多数決」で決められるのが通常である。
 いろいろな意見を戦わせて、合意にこぎつけることは、よいように思われるがも必ずしもそうとは限らない。原案はどこかで出すのであろうが、その原案自体は革新的な優れたものであっても、いろいろな意見が出て、妥協、妥協が重なって修正されていくなかで、当たり障りはないが、初めの意図とはかけ離れた、可もなし不可もなしの、全く凡庸なつまらない、玉虫色の案になってしまうという場合が少なくないのだ。
 「玉虫色」だから、それぞれが自分に都合がよいように、解釈して運用するから、何が良くなったか、悪くなったかも分からないことにもなる。
 新製品開発での話である。
 ある製薬会社で清涼飲料の新製品開発会議が行なわれた。社長提案の点滴注射液を飲料とする新製品構想が俎上に上った。社長は、身体に良い点滴液なら、これを飲料化して売ったらどうか、という案であった。これに対して出席者の全員が猛烈に反対した。が、社長は、その権力にものを言わせて、全員反対を押し切って開発着手を決めた。
 この新製品が大成功し、開発から20年経過した現在でも清涼飲料の売り上げ高ではトップクラスを占めているのだ。
 製品開発などでは、皆が賛成するようなものは、皆が思いつくものだから、特異性のある面白い新商品にはならないのである。
 これは商品開発の話だが、政策でも同じで、皆の意見を集大成した政策は、可もなし、不可もなしのつまらない政策になってしまうのである。これも民主主義の弱点の一つと言えよう。
 


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.31 11:55:09

・非政治的投票
 選挙という言葉から連想されるのは、第一に、拡声器の音量を上げて、候補者の名前を連呼しながら、走り去る選挙カ−だ。選挙戦の前半には、政策らしいものを語りながら走っている車もあるが、選挙戦も終盤になると、連呼一点張りになる。候補者の名前を知ってもらうのが、最良の投票誘引策だと考えているからであろう。
 政見や政策で判断して投票する有権者はほんの少数だ、大多数の有権者は名前を知っている候補者に投票するのだ、と見抜いているのであろう。が、それもあながち誤りではないのだ。
 政治の「セ」の字もしらないのに、知名度だけは高い、タレントや俳優、スポ−ツ選手などの公認候補も多い。本人にはその気はなくても、拝み倒して引っ張りだされるのであろう。こういう候補者が高い得票を上げ、当選率が高いからである。当選して、採決の際の一票になるだけでよい、というのが党の本音なのだ。
 普段は、電話してくることもないのに、選挙になると投票依頼の電話をしてくる人がいる。「分かりました。考えておきます」と受け流すが、心のなかでは「失礼な!頼まれれば誰にでも投票するような政治音痴とでも思っているのだろうか」と腹が煮えくりかえる気持である。が、このような「電話攻勢」も効果があるからやられているのであろう。
 こういう「連呼」といい「投票の電話依頼」といい、低級極まる選挙戦術だが、これが盛んに行なわれているのは「頼まれたから投票する」「名前を知っているから投票する」という有権者が少なくないことを意味するものである。これらは、いずれも、候補者の政治的識見や力量とは無関係に投票する「非政治的投票」である。
 これも民主主義政治の陰の一面なのである。


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.30 09:18:57

 こういうことを書くと、自民党政治家あたりは異議を唱えるであろう。「美しい日本」「戦後レジ−ムの変革」「憲法改正」「教育基本法改正」などは、まさに日本の将来を見据えたマクロ改革だ、と言うであろう。しかし、これらがインチキ臭いのだ。
 岸信介元総理を祖父とする安部総理は、祖父が悲願としながら果たせなかった「自主憲法制定」をどうしてもやりたいのだ。それは憲法とか日本という国家についての政治哲学に裏づけられた発想ではなく、単に、祖父がやりたくて、やれなかったことをやってやろう、という私的情念によるものなのだ。
 今の憲法は、GHQから押し付けられた憲法であるにせよ、世界をリ−ドしうる内容を持つ「世界遺産」とも言うべき立派な平和憲法である。その憲法に基づく「戦後レジ−ム」にの下で、世界の大国にまでのし上がることが出来たのである。このレジ−ムは変える必要は全くないのだ。
 国連活動に対する自衛隊の貢献度を高めて、「日本はカネだけ出すが、血を流して世界に貢献しようとしない」という批判を受けないようにするだけでよいのだ。それは憲法を改正しないでも出来るのである。
 「教育基本法」の改正にしても、何が日本人の道徳や愛国心を綻ばせたのか、その全貌を解析した上で政策を考えないで、単に「愛国」行動を強制したり、教員の資格更新制を導入してもむ何も改善しないのだ。
 「美しい日本」というスロ−ガンに至っては、安倍自信が酔っているだけの中身も実感もない、空しいお念仏に過ぎないのだ。
 このように、選挙の「マニフェスト」で出すメニユ−に乗せるのは有権者受けのする近視的視野の政策のみ、そこに乗せない政策は近視的政策の陰に隠れて、国民不在の指導者のお好み放題、ということもできるのが民主主義政治なのだ。
 


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.29 10:35:58

・近視的視野の政策ばかり
 昨今の選挙では、かっての「公約」に代わって「マニフェスト」なるものが有権者に提示される。マニフェストは英国ではかなり以前から選挙の際に、政党や候補者の有権者に対する施政上の約束として使われていたものだが、これを日本の政治家が取り入れたものである。
 「マニフェスト」は「公約」と違って、施策の記述が具体的で、施策内容、達成方法、達成時期、数値目標などが明記され、有権者に分かり易く、かつ達成状況の評価もやり易い、などの利点があるために、採用されることが多くなったものである。
 しかし、マニフェストに掲げられている施策項目は、その殆どが近視的視野の政策である。生活密着型といえば聞こえは良いが、つまり身の周りの問題、当面の問題を対象にした施策なのだ。
 地方議会議員の選挙であれば、ごみ処理、ごみ回収、介護、交通安全、交通渋滞の解消など「どぶ板政策」が中心になるのも当然だが、国政選挙でも、それに類した政策が羅列されるのだ。
 国政だから、将来どのような国にしようとするのか、世界の中でどのような国際貢献をしようとしているのか、どのような経済圏構想を描こうとしているのか、アジアにおける平和と安定化についてはどのように考えるのか、アメリカ依存だけでない日本の防衛をどう考えるのか、などの長期的、巨視的な方針、政策に触れねばならないはずだが、そんなものは皆無に近いのだ。
 国会議員のなかでは「外交や防衛、経済圏構想などは票にならない」という認識が一般化しているというが、まさしく、有権者の関心を引かない、つまり票にならない施策は掲げない、という考え方が、もろにマニフェストに反映されているのである。


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.28 10:03:33

・人気投票化する指導者選び
 国家の指導者といえば、大統領とか政権政党の党首ということになろうが、この指導者選びを選挙で行なうのが民主主義である。
 ところがその選択基準がおかしい場合が少なくないのだ。
 世論調査でも、「支持する総理」についての支持理由の上位には「人柄がよいから」というのが上げられるのが常だが、それは、回答者が選択する「理由項目」に挙げられているからだとしても、人柄と政治家としての識見や力量とは関係ないのである。要するに、「大衆好み」、大衆的な「人気」で決められてしまうのだ。
 世界最初の民主主義国家、古代ギリシャのアテナイで、指導者に選ばれたのはペリクレスだが、その理由は、彼が稀代の雄弁家だったからだ。大衆はその雄弁に騙されて、指導者に選んだが、市民に負担を強いる政策を乱発し、それが、アテナイがペロポネス戦争でスパルタに負ける遠因となったのである。
 2000年の大統領選でクリントン政権の副大統領ゴアと大接戦で辛うじて大統領を座をかちえたブッシュも、大統領としての器量はゴアのほうがはるかに上であり、知識層はこぞってゴア支持であったのに、「きさくな人柄」というイメ−ジを全面に出した演出が大衆の人気とりに成功して、やっとこさゴアに辛勝したのだ。
 ゴアが大統領になっていたら、イラク進攻はなかったであろうし、今の米国のように、イラク問題に進退窮まって深刻なジレンマに陥ることもなかったであろう。
 民主主義の選挙での主役である大衆の政治感覚は民主主義大国を任じる米国でもこんなものなのだ。


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.27 09:07:55

 政治の目的は、国民生活の向上と幸福増進のための社会基盤を構築することにあると思う。勿論個々人の幸、不幸は、私的な関係に影響されるから、政治はそこまでは及び得ないが、国民を幸せにするための一般的な社会基盤の整備、充実は政治の役割であると思う。そのための政治形態として、最適な政治制度が民主主義である、と言われている。
 リンカ−ンが言うように、「国民のための、国民による、国民の政治」だから、政治に民意がそのまま反映される、と言う点では、一番政治の目的に叶った政治形態だとは言えよう。
 イギリスの名宰相チャ−チル卿は、「民主主義ほど手間の掛かる面倒くさい政治体制はないが、これ以上のものはないから仕方がない」と言っている。選挙だの、投票だの、議会だのの手続きの面倒くささを言っているのであろう。
 たしかに、民主主義体制をとっている国は多い。冷戦終結後、ロシアだけでなく、かって、ソ連圏に属して、共産主義を目指していた東欧諸国は、こぞって民主主義国になったのである。
 米国のブッシュ大統領も民主主義の普及に熱心で、イラク侵攻も独裁者フセインを打倒して、中東のイスラム圏に民主主義のモデル国家を建設することをその狙いにの一つとしていたのである。
 民主主義政治は、古代ギリシャ時代からあった。ソクラテス、プラトン、アリストテレスを輩出したアテナイがそうである。
 しかし、アリストテレスは「民主主義政治は愚民政治に陥る虞がある」と言ってもいるから、アテナイでの民主政治がうまくいっていたとも言えなかったのであろう。
 確かに、民主主義にも、いくつかのウイ−クポイントがある。それについて考えてみよう。


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.26 10:10:25

・「心」は人の人格、体調、環境を総括する脳細胞の働きだ
 事物の本質や実態についての科学的説明は不可能であるとの立場から、現象とその相互作用を機能として記述しようとする考え方が「機能主義」である。
 この考えに基づいて「機能主義」では、「心」は生物的欲求の充足のために出現した有機体の、環境に対する適応の一形態であると考えている。
 しかし、「適応」という言葉は適切ではないと思う。生物の進化を環境に対する適応だ、というように、「適応」はより合目的な方向に向かうことだが、「心」即ち「情念」は必ずしも良い方向に向かうとは限らないからである。だから、「適応」というよりも「対応」とか「反応」というのが妥当であると思う。
 ある事象に遭ったとき、これに「対応」するのは「脳」である。
人間の「脳」は1000億以上の神経細胞からなり、相互に「シナプス」と呼ばれる部位を介して結合し、神経回路を形成している。この神経回路網で情報を処理し、個々のレベルでの行動制御など脳機能全般を制御する役割を果たしているのである。
 しかし、人間は、このような機能を失う場合がある。外傷や脳への障害によって、動物的神経を傷めたため意識を喪失して、外部からの刺激に反応しなくなった「植物人間」の場合がそれである。植物人間が生きているのは、動物的神経が傷ついても、消化や分泌を司る植物的神経が生きているためである。
 また、「アルツハイマ−」などで、脳が萎縮して痴呆化してしまう「認知症」の場合も脳神経機能は低下する。
 このいずれの場合でも、「心」の働きはなくなるか、著しく低下するのである。
 このようにも「心」は脳神経細胞の健全な働きがないところには存在し得ないのである。
 また「心」は自我の一つである。自我とは、周辺の他者の役割や
相互関連を把握し、それに基づい自分の考えや行動を決める作用である。ここから「心」と環境とのかかわりが生ずるのである。
 人の、健康状態や体調で、「心」の持ちようが微妙に変わることも前述した。
 このように「心」は人間の脳神経細胞機構の働きであるが、単なる知識とは異なり、その知識をベ−スに五感で知覚したことに対する精神反応作用であり、その意味で、「心」とは人の人格、体調、環境を総括する脳作用の働きだ、と云えると思う。 


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.25 10:09:13

・「心」についての哲学の変遷
 アリストテレスは「心」は身体の第一の「エンテレケイア(現実体)」としての「霊魂」であると定義している。古代キノシャ哲学では、「心」は身体に宿ってはいるが、身体とは別の生命を持つ高次の生命的存在と考えられていた。ここから、肉体は死んでも「心」は死なないとされ、「魂」とか「霊」の考え方が生まれたのである。
 この考え方を覆したのがデカルトであった。デカルトは心と物を異なる実態とする「二元論」を唱えた。が、デカルト説では両者間の相互作用についての説明に窮することになり、デカルト以降は、二元論を放棄し、唯心論、唯物論という対極的な一元論の二極化に進むようになった。その後は自然科学の急速な発展に伴って、物的一元論が支配的になっていった。
 1950年代に入ると、脳生理学の発展によって、「心的状態」を「脳状態」と同一視する「心脳同一説」が唱えられるようになった。更に、1960年代には、「心」と「脳」との関係は、コンピュ−タ−における「プログラム」と「ハ−ドウェア」の関係に喩えた「機能主義」まで唱えられるに至っているのである。つまり、「脳」はコンピュ−タ−本体や周辺機器などの機械類のようなものであり、「心」はそれを作動させるための命令をコンピュ−タ−に分かるようにするプログラムで記述したソフトウェアのようなものだというのである。
 この説は分かり易いが、問題は「心」の状態の「プログラム」がどのように形成されるのか、である。しかし、このプログラムは、前節でみたように、一様ではなく、事象が同じ、受け手のひとが同じでも、その時々の状況によってさまざまに変化するプログラムなのである。


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.23 09:45:47

少し、例をあげて説明しておこう。
 ・健康状態と心
 本来は穏やかな人でも、高血圧になって、血圧が高くなると、腹を立て易くなる。高血圧の人は誰でも「おこりんぼ」になる傾向がある。「健全な精神は、健全な身体に宿る」ということわざは真実である。
 ・経時変化と心
 その事象に遭った瞬間の心情と、それから時間が経過した時点の心情は大きく違う。受けたショックがだんだん薄らいでくるのと、それを冷静に考えてみる時間があったこととの、複合作用によるものであろう。これは喜怒哀楽すべてについてい云えることである。
 ・経験、記憶、学習と心
 初めて遭遇したときの心情と、一度経験した問題に遭遇した場合の心情は、それによって受ける強さが違う。これが慣れっこになってしまうと、何も感じなくなることにもなる。
 ・周囲、影響に対する配慮
 情念を表に表わすことの損得を考えて、心のなかとは別のそぶり、言動をすることがある。政治家、外交官、勝負師のポ−カ−フェイスがそれである。
 ・付和雷同
 デモなどの群集のなかにいたり、マスコミに煽られたりすると、知らず知らずのうちに、煽動されてしまう心情現象である。

 こういう事例を上げてみると、ひとの心のなかにある「思い」と外に現す「言動」が異なる場合もあることに気付くのである。これほ「上べ」と「本心」と言ってもよいが、他人がそれを察知するかどうかは、別として「本心」が本当の「心情」であることは云うまでもない。


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.22 14:45:12

・「心」を決めるもの
 人の「心」を決めるものはなんだろうか。人の一般的な感情の傾向や性質に関する概念が「気質」である。
 心理学者、クレッチマ−は、「気質」を「躁鬱質」「癲癇質」「分裂質」に三区分している。この気質は、遺伝的、生物学的なもので、個々人の「性格」の基礎にあるものであろうが、「性格」とは違う。「性格」は多岐にわたっている。「おとなしい」「粗暴である」「生真面目」「活動的」「冷徹」「暖かい」「厳しい」「やさしい」「直情径行」「雑駁」など、まさに「十人十色」である。
 同じ両親から生まれた兄弟でも性格は違う。性格が似通っているのは「一卵性双生児」くらいではないか。
 性格が違うのは、「気質」「性別」など遺伝的なものばかりでなく、家庭環境、その人の置かれている位置、育ち方、社会環境、学習環境などの違いによるものであろう。
 この「性格」が「心」のありようを決めるだろうか。「性格」と「心」は無関係ではないが、「性格」が「心」のありようを一義的に決めるものではないと思う。
 ある事象に対してどのような「心」即ち「情念」を抱くか、「気質」や「性格」が基礎になることは認めても、そのありようを左右する要因はそのほかにも沢山ある。
 その時の環境条件、自分の身体的、精神的条件、健康状態、周囲に対するる配慮、影響の読み、経験と記憶、学習、経時変化、付和雷同、感受性、その人の人生観等などが考えられる。だから、対象となる事象が同じであっても、それらの要因の組み合わせによって、「心」のもちようが違ってくると思う。「鬼の目にも涙」とか「仏の顔も三度」「虫の居どころ」「金持ち喧嘩せず」などと言うのはこのことであろう。


  コメントを書く 拍手をする 
サークルに参加をするとコメントを書くことができます。

2007.07.21 16:14:03

ログインフォーム
サークルって何?
今すぐ登録!

メールアドレス :

パスワード :

ログイン状態を保持する
メンバーリスト
オーナー 和寇の末裔(1151)
メンバー 和寇の末裔 - 2(8)
メンバー an_idle(1)
メンバー 物理屋(1)
メンバー deer(1)
メンバー a(1)
メンバー 久遠(0)
メンバー タカギ(0)
メンバー hamasa(0)
メンバー らりほ(0)
>> 一覧(13人)
参加する
サークルに参加するとメッセージの送信やメンバーリストの閲覧が出来るようになります。 サークルに参加するには、ログインが必要です。初めて利用される方は、 心あたたまるコミュニティウェア Circle Player の新規ユーザー登録(無料)を行ってください。
サークル
スポンサーサークル紹介 
近くのサークル 説明
拍手ランキング >> 一覧
このサークルを...