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 学校でのいじめとその最悪の結果である生徒の自殺が止まらない。この現象が始まったのは20年前である。そのたびに政府は対策会議なるものを設置して、対策なるものをを講じるが、いじめは止まらない。むしろいじめによる自殺は増えてきているのだ。
 しかし、文部科学省の統計では、いじめの総件数は減少し、それによる自殺は、99年以降ゼロとなっている。こんな数字は誰も信用していない。これは、削減目標の設定や厳しい処分を伴う評価を恐れて、事実が隠蔽され、報告されないだけだからである。
 戦前、戦中の軍隊での下士官による下級兵士への暴力はひどいものであったという。下士官は罰するような理由がなくても「気合をいれてやる」などのわけの分からない理由をつけられて、下級兵士をぶん殴ることを無上の楽しみにしていたようだ。
 軍隊にはこういう伝統があって、脈々と受け継がれ、かって自分が下級兵だったときに、上官から受けた暴力と同じことをやっていたのである。
 旧制中学の寄宿舎でも、それを真似して上級生が下級生をぶん殴ることが慣習化していた。
 これは「いじめ」というより悪しき慣行と言うべきものである。
 その頃の中学にもごく少数であったが、乱暴者のグル−プがいた。彼らは「ガンを付けた」(にらんだ)だの「ええかっこしよる」などと因縁をつけて乱暴を働いていたが、その場限りで、特定の生徒に対して繰り返し持続的に暴行することはなかった。
 また、子ども同士で、友達に乱暴したり、嫌がらせをやることはある。それは一過性の「意地悪」であって「いじめ」ではない。
 「いじめ」は意地悪と違って、特定の生徒を標的にして、故意かつ持続的に不快感を与えることをやったり、暴力を振るったりすることである。それが今の「いじめ」である。
 

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  • 2006.10.31 12:09:05

ニ−チェは「人間はアプリオリには善悪の彼岸にある」と言ったが、いくら道徳教育を受けていても、悪事を働くチャンスがあり、その環境が整っていれば、悪事も平気でやってのけるのが人間なのかも知れない。
 このような悪事を働く手合いにも善悪の判断力はあるのだから、「盗人にも二分の理屈」で、悪事を働く上で、自分なりに二分の理屈を作って、自分を納得?させようとするであろう。
 「逆援助交際メ−ル」や「猥褻写真、ビデオメ−ル」をやっている連中は、「すけべな奴はそれなりの損害を蒙ることが当然なんだ」とでも思っているのではなかろうか。
 闇金をやっている奴等は、金融関係の法に疎い愚かな奴等には、高金利は「バカ賃」なんだとでも思っているのかも知れない。
 また、権力の陰で悪事を働く奴等は、「会社員でも交際費は使っているのに、俺たちには『機密費』もないし、交際費の予算を取ることも出来ないのだから、その代わりに『裏金造り』くらいはやむを得ない。
 OBとしての天下りは、業者間の値下げ競争回避させ、受注合戦を交通整理する機能を持つ談合の仕切り役としての必須の存在であり、業界の和という要望に応えているのだ、とでも云いたいのであろう。
 しかし、そのような、二分の理屈をひねってみても、自分自身でも内心忸怩たる思いは免れないであろう。こんな屁理屈をつけてみてもやけっぱちの鼻歌みたいなもので、自分が身罷るときに「俺の人生はこれでよかったのだ」という気持にはとてもなれないであろう。
 ゆめゆめ「人間社会のけもの道」には迷い込まないよう、用心が肝要である。
                         

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  • 2006.10.28 12:56:58

アメリカの政治学者ダ−ルは、「権力」ら概念について、「AがBに対して、Aが本来やりたい何かをさせることができる力だ」と言った。それが法に基づく正統性と統制力を付与されたときに政治権力となるのであろう。
 議会制民主主義国家では、議会の立法に基づいた権力の行使に対しては、権力を行使される側は、たとえば税法のように、それへの服従を正当なものとして受容するという関係が成り立っているのだが、そういう場合だけではない。
 その権力のの座に安住している政治家や官僚が、権力の陰に隠れて不正や不当行為を働くことが絶えないのである。
 その最もポピュラ−なものが、公共事業における「談合」である。「官製談合」などという言葉があるが、役所が計画する工事についての予算額が分からねば談合は成立しないのである。役人しか知らないはずの予算額を業者が知るのは、役人が知らせるしかないのである。談合はすべて「官製談合」なのである。このような、役所と業者との癒着による談合体制は、昔から続いているのだ。その裏には、利益率の良い公共事業という餌まきと官僚OBの受け皿造りという相互の利権構造ががっちりと裏打ちされているのだから、この「権力けもの道」からは絶対に抜け出せないばかりでなく、永続的に受け継がれてゆくのである。
 また、土建がらみだの官庁だけでなく、一般の官庁と業界との間で、官僚OBの「天下り制度」が定着しているのも「権力けもの道」の一つだ。
 血友病患者の血液製剤の非加熱剤を放置して、HIV患者を増やしてしまったのも、その製剤メ−カ−に天下っていた旧厚生省の局長クラスのOBが、その後輩である厚生省官僚に働きかけたためであったのだ。このように、官僚の「天下り制度」が在るべき政策方向をゆがめ、国民の血税をムダ使いし、政治や行政をひずませる弊害は大きいのである。
 また、「官公庁の裏金造り」は、今までにそれが発覚しているのは極く一部だと思う。滋賀県庁では長年に亙って、組織ぐるみで裏金つくりに精を出し、発覚したときは十数億円にも上っていたのだ。それが仲間の飲み食いや送別費用、旅行資金に使われていたというから呆れ果てるばかりである。
 悪事を取り締まる警察でさえもが、タレ込みの情報やに支払った形を取って、偽造の領収書まで作って、裏金造りに励んでいたのである。これも昔から引き継がれてきた慣行であったというし、それに違和感を覚えて暴露した警察官が左遷させられるなど、骨身にまで染み込んだ、それから抜けられない「権力けもの道」であったのだ。このようなことはすべての官庁で行なわれていると考えるのが自然である。
 こうなると、組織ぐるみだから、処罰しようがないのだ。処罰すれば警察そのものが壊滅してしまうからである。「みんなで渡れば怖くない」とはこのことであろう。
このほかに、も「権力けものみち」は枚挙に暇ないほどあるであろうが、このこの三つが「権力けものみち」の典型であると言えよう。

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  • 2006.10.27 11:44:46

・金融けもの道
 一般の人は、利息制限法とか出資法などには疎い。それにつけこんで、利息制限法の制限利息5%と出資法の上限利息29.2%との間のいわゆる「グレイゾ−ン」利息幅ぎりぎりの高金利で債務者を追い詰め、暴利をむさぼるのが消費者金融業者のやり口である。正式に金融業者として登録している消費者金融業者でさえ、こんなことをやっているのだから、それ以外の闇金融になればその悪どさは言語に絶するものがある。
 銀行の預金金利は、定期預金でも1%未満であるのに、闇金の金利は3桁%にもなるものはざら、その返済が遅れでもしようなら、思いもつかない手を使って脅し捲くるのである。
 貸金業法では、債権取立てのために、債務者の居宅や勤務先に押しかけて、大声を張り上げたり、張り紙をすることなどは禁じられている。だから、別の手を使うのだ。
 債務者は電話に出ないから、債務者宅の隣近所を総なめで、「債務者を呼んで来い」と電話を掛けまくったり、近隣の人に「オマエは連帯保証人になっているから、即刻借金を払え」と脅したり、闇金がガセ注文をして、債務者宅に葬式の花輪や20人前の寿司を届けさせたりするのである。
 闇金からのガセ通報で、パトカ−5台と防刃服を着込んだ警官十数名が債務者宅に駆けつけたり、10台もはしご消防車が債務者宅へ飛んできたのを、実際に見たこともある。
 これは完全な公務妨害の犯罪だが、多数名義のケイタイを使っており、複雑な通信回路を経由させているために、警察でもその発信源を突き止められないのである。
 これらは、いずれも、債務者の隣近所を騒がせ、迷惑漬けにするることによって、借金を払わざるをえないような気にさせるための、闇金の知恵なのだ。
 さらに、年金担保の金融被害も多発している。
 年金法では、年金を担保に融資することは禁じられているが、このことを知らない消費者は、年金手帳、銀行通帳、銀行印を担保にカネを借り、その利息支払いのために、半永久的に年金はほとんど受け取れないというハメに陥るのである。
 こうして、債務者は、多重債務の蟻地獄に陥ち込み、果ては自殺して、自分の生命保険金で借金を償うという悲惨な結末を迎えることになるのである。
 このようにも「金融けもの道」には、闇金がそれにのめりこんで抜け出せない「闇金けもの道」と債務者が借金地獄から抜け出せない「借金地獄けもの道」と、全く逆方向の二つの「けもの道」があるのである。

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  • 2006.10.26 10:42:39

・ITけもの道
 インタ−ネット、ケイタイなどに代表されるITは情報社会の大革命である。ITによって情報ネットが世界中に張り巡らされ、瞬時にして広範囲に情報が伝達されるし、情報検索も多様化され、まさにグロ−バルなブレイン・ネットが構築されているからである。
 その反面、情報発信源の秘匿性が高く、情報伝達網の複雑性が、新たな犯罪手口を生み出し、多様化させているのである。
 ID、パスワ−ドを、知らぬ間に盗み出して、瞬く間に銀行口座の預金を空っぽにしてしまう「スパイウエア」や「キイロ−ガ−」「フィシング」「ハイジャッカ−」「ダイヤラ−」など、予想だにしなかった巧妙な手口による被害が急増しているのである。今後ともそのIT犯罪の新手口は、開発され続け、多様化していくであろう。
 ケイタイを利用した「振り込め詐欺」が始まってから10年くらいは経つであろうが、いまだに被害が発生しているし、いったんクリックでもしようものなら、多額の料金請求や脅迫を繰り返されるであろう「逆援助交際勧誘メ−ル」や「猥褻写真販売メ−ル」は
日に十数通にも及び、これらを消去するだけでも大変な手間を掛けさせられているのだ。
 これをやっている手合いは、そのメ−ルに応答してくる確率が低くでも、分母が何万というメ−ル数だから、一つ引っかかってきても何十万円もの収入になれば、まともな勤めより遥かに高収入であろう。しかも無税、延縄に釣られたマグロではないが、釣り上げたときの素晴らしい快感がたまらない、しかも、警察も尻尾をつかめない、フムロバイダ−が削除するむのも難しい、ということだから、やめられないのである。

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  • 2006.10.25 10:08:16

 「けもの道」とは野生動物である鹿、とか猪、熊などが通る道である。そこを繰り返し通るから、道のよう形になっているのである。
 その道は、おそらく動物が、巣から出て餌を探しに通る道なのであろうから、そこを通る動物は、通い慣れているから迷うことはないのであろうが、人間がそこに入り込むと、迷ってしまうことは確実であろう。
 人間社会にも「けもの道」は沢山あると思うのである。「人間社会のけもの道」とは、一旦入り込んだら、出られないようなおどろおどろした道である。
 これは「迷路」とは違う。迷路は出口は必ずあるのだ。が「人間社会のけもの道」には出口はないのである。
 ひとは、理不尽な乱暴を受けたり、受けそうになったりすると「このけだもの!」というような言葉を投げつけたりする。人間とは思えない行為だ、と言う意味である。
 しかし、けだものより人間のほうが悪質であると思う。たとえば、発情期になると、けだものはめすを巡っておす同士が、激しい争いはするが、相手を殺すまではやらない。どちらか優勢が決まれば、それで決着するのである。また、けだものがレイプするようなことは全くないのだ。
 「けもの道」という恐ろしげな言葉から連想されるのは、おそらく犯罪がらみであろうと思われるであろう。確かに犯罪からみが多いけれども、そうとは限らない。
 よく「○○オタク」という言葉が使われる。これは趣味や道楽にのめり込んでしまった人のことのようだが、その趣味や道楽が、それ自体は不健全なものでなくても、それが日常生活を妨げたり、家庭生活に悪影響を及ぼすようなことになれば、けもの道だということにもなるからである。

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  • 2006.10.24 10:48:54

健康の有難さは、病気になってから初めて気付くというが、夫婦愛を伴侶を亡くしてから気付くというのは遅すぎるのである。夫婦のそれぞれの命は二人のものだということが夫婦愛の基本であることを常に肝に銘じておくべきである。
 これまで、恋愛における愛、夫婦愛について述べてきた。ひとに関わる愛という名のつくものにもいろいろある。それらの性質を考えてみよう。
・隣人愛
 自分の住居の住み心地を良くするための配慮である。これは愛というよりも一種の生活の知恵である。また、キリスト教の説く「隣人愛」はキリスト教の教理に基づく信徒の義務みたいなものであって、これも愛とは言えないと思う。
・師弟愛
 先輩、後輩、上司、部下の関係も同じだが、これは基本的にパスカルの言うところの「機能愛」である。弟子が良くできる、部下がよくやっているという能力を認め、評価するものであって、情念型の愛とは違うものである。
・友愛
 「友愛」と言う言葉は辞書にはあるが、気心の知れた親しい仲間に対する親愛感だから、「ホモ」や「レズ」の関係でない限り、愛というよりも、「友情」とか「よしみ」というほうが適切であろう。
・同志愛
 同じ目的を持ち、その達成を期する強いきずなにで結ばれた仲間同士に芽生える助け合いの感情で、これは情念型の愛ではあるが、考え方の齟齬などて同志感がなくなれば消滅する条件付のものである。
・家族愛
 一般的な強弱の順に並べると、「親の子に対する愛」「糊の親に対する愛」「兄弟愛」という順になろう。これは血のつながりと利害の一体性からの「身贔屓心」による「情念型」の愛である。だから、利害の一体性がなくなる兄弟では「他人の始まり」ということになるのである。
 こう考えてみると、パスカルの言う「機能型」の愛は「愛」という名に値しない。本当の「愛」は「情念型」の愛だけであると言えるだと思う。 

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  • 2006.10.22 11:54:29

恋人同士が結婚にゴ−ルインすれば、恋人に対する愛は夫婦愛に変る。
 カントは、「結婚とは他人の生殖器の独占的使用権」だと言った。お互いに貞操を守ることを誓い合う結婚は、確かにそういう面はあるし、それが重要な意味を持つもののではあるが、結婚はセックスだけが目的ではないから、この考え方は妥当性を欠いている。
 また、ショ−ペンハウエルは「結婚は生殖器の求め合いで、それをひとは、伴侶の発見とか、愛という名で糊塗しているだけだ。愛は種族保存のために肉体に快楽を与える行為に過ぎない。動物のように、性交の後は、去ってゆくか、死ぬかの種と違う人間の夢に過ぎないが、日常生活では『家庭の苦しみ』が待っている」と言っている。
 これも「生殖とセックス」を結婚の主たる目的に据えて、「愛」なんて体の良い名目に過ぎない、と見ているのはいかにもショ−ペンハウエルらしい考え方である。
 お互いに顔も見ないで結婚する風習のあった時代や地域ではそうであったかも知れないが、恋愛から結婚、あるいは、見合い、お付き合い、結婚というプロセスを辿る結婚には当てはまらない見解である。
 伴侶を選ぶということは、永い人生を贈るためのパ−トナ−として、愛し続けられ、幸せにさせたいと思うひとを決めることであり、セックスや生殖だけためではないのである。愛してはいるけれども、結婚の相手としては考えない、という場合も少なくないのである。つまり、結婚を前提とした愛は、純粋の愛だけではなく、結婚相手としての適格性の判断が含まれるのである。
 愛もあり、適格性もあると言う場合が最も望ましいが、そうは行かないのが現実である。そのいずれかに偏った結婚もある。愛よりも適格性にウエ−トを置いた結婚の典型が政略結婚である。その場合、待っているのは、まさしく「家庭の苦しみ」ということになろう。
 

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  • 2006.10.20 10:52:07

 ひとを愛するということは、情緒、感情、意志、志向性の入り混じった、他者との関係情念である。
 「愛する」とい言葉に近い言葉はいろいろある。「気に入る」「好意を抱く」「好きである」「好感を持つ」などいろいろあるが、いずれも「愛する」とは次元が違う。
 スピノザは「愛は自己保存を図るものであり、自分の愛する者を維持し、憎む者を破壊しようとするものだ」と言った。がこのような定義では、何か交尾期のおすがめすを獲得するために他のおすと戦うような感じを与える。理性と倫理性を持った一般の人間には当てはまらないと思う。
 「愛する」という言葉は「I LOVE YOU」と言う言葉を幼児でも母親に言ったりするくらい、親しんでいる言葉だが、いざ、これを定義するとなるとなかなか難しい。
 ひらたく言えば「愛の対象となるひとをいとおしむ気持が心のなかに住み着くことである、と言えよう。パスカルの言う「愛」を「機能型」とすれば、この定義の「愛」は「情念型」とも言うべきものである。
 その位置が心の真ん中であるか、わきであるかはいろいろだし、その強さもさまざまであろう。
 その最も激しく、強いのは恋愛における愛であろう。
 四六時中、そのひとのことが、頭にあって、心を奪われる情念が息づくことにもなる。この関係が一方通行であれば、失恋に終わるのであるが、双方的な関係、つまり相思相愛であれば、順調にゆけば、結婚にゴ−ルインすることになる。

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  • 2006.10.19 10:09:20

 パスカルは「人は決して人を愛さない。ただ特性を愛するたけだ」と言う。
 彼の言う「特性」とは、そのひとが持つ「美しさ」とか「判断力」とか「記憶力」である。これを持っているから愛するのであって、これを失ったら愛さなくなる、と言うのだ。「もし、その美しい女性が天然痘に罹ったら、愛は消えるであろう」とパスカルは言っている。
 何年か前に、天然痘は世界から消滅した、という宣言がWHOから出され、人類にとっては過去の感染病になったが、パスカルが生きた17世紀には、これは恐ろしい病であったのだ。天然痘に感染して、治っても、顔が「あばた」になる病気だからであった。
 しかし、天然痘に罹ったから、といって愛は消えるであろうか。そうとは思わない。映画監督なら、再びヒロインの役は与えないであろうが、男女の愛は違うと思う。自分こそが彼女を一層愛して、幸せにしてやらねばならない、と思うのではなかろうか。
 記憶力や判断力は、それが優れていることを認めて、それを評価し、「気に入っている」から重用しているのである。だから、その能力がなくなれば、あるいはそれが必要なくなれば、当然重用することもなくなるわけである。これは「愛」とは違うであろう。
 また、美しい女性を娶って、夫婦になった男は、妻が年老いて美しさが衰えるに応じて妻を愛さなくなるであろうか。それはないと思う。
 親は、不具な子ほど可愛いというが、不具そのものを愛するわけではない。不具の責任は親にもあるかも知れない、という自責の気持や、子どもが不憫であるという感情が健常の子どもに対する愛情よりも強くなるあろう。パスカルの考え方は、このような場合には当てはまらない。

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  • 2006.10.17 10:59:55

サークルの紹介

 従来の思弁的哲学を踏まえながら、日常の諸身辺の問題について、哲学的考察を加えようとするサ−クルです。いわば普段着の哲学です。

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