カジュアル哲学
オーナーオーナー:和寇の末裔   メンバー数メンバー数:13人   最近1週間のメッセージ数:6通
サークルの紹介

 従来の思弁的哲学を踏まえながら、日常の諸身辺の問題について、哲学的考察を加えようとするサ−クルです。いわば普段着の哲学です。

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3民営化不可業務の民営化
 官営は非効率であることは確かである。官僚は予算さえ獲得してしまえば、それを使い切ることしか考えない。リスクを伴う効率化や改善をやる気は毛頭ないのである。今まで通りにやっていることず一番無難だからである。だから効率化を図るためには、民間化するのかベタ−であるということになる。
 しかし、民間化してはならない仕事もある。官が公共の観点からきちんとやらないと、不正が発生する可能性のある業務である。耐震設計基準のチェック業務などはこれに該当する。これを民営化すれば、価格競争やコストダウンをねらって、耐震設計に手を抜こうとする業者が出る可能性は充分予想できるのである。民間業者にチェックさせたものを官ガ再チェックする制度としても、手間が掛かる再チェックが形式化してしまうであろうことは充分に予想できたはずである。こんな配慮もなく、民間化したつけが一連の耐震偽装事件を惹き起こし、多数の購入者の財産を破壊し、ダブル債務の加重負担を被せることになったのである。
 耐震設計の手を抜いてても地震がくるまでは分からない。地震が来て倒壊しても、地震の騒動にまぎれてうやむやになる、だからこんなうまい手はない、と考える悪質業者がでないとはしえない、ということに気付くべきであっのだ。
4派遣業務の緩和
 派遣、パ−ト、フリ−タ−を使えば、正社員の場合よりも労務費は3割かた安くなるし、正社員と違って容易に解雇もできる、社会保険の負担も不要なのだ。不況に苦しむ経営者にとっては、コスト削減にうってつけである。たから、会社はこぞって正社員を解雇してこれらに切り替えたである。
 その派遣労働職種が拡大され、一般労働にまで広げられた。それが派遣、パ−ト、フリ−タ−の増に繋がったのである。 
 これは、即効的なコストダウンにはなるであろうが、会社及び国全体としての人材養成には、将来的に大きなマイナスになるのだ。


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2006.08.31 11:00:46

バブル崩壊後、日本などからの技術導入と安い労働力で世界の生産拠点となった中国の進出と製品競争力を中国に奪われたことによって、日本は10年もの長期にわたってデフレに苦しめられる破目に落ち込んだ。これを克服しようと、導入したのが一連のアメリカ式の市場競争原理に基づく競争促進施策とビジネスモデルだ。その主なものとその影響を上げてみよう。
1消費財流通のアメリカ化
 ス−パ−を大規模化して、都市郊外に「ショッピング・センタ  −」の建設や薬、酒、靴、家電、IT製品、書籍の大規模専門店チ ェ−ンの建設がブ−ム化した。低コストと大量販売、品揃えで顧 客を吸収することがねらいである。
  そのために、薬屋、電気屋、酒屋、荒物屋、肉屋、魚屋などの 小規模個人小売店が軒並みバタバタと廃業に追い込まれ、駅前の メイン商店街や銀座通りがシャッタ−通り化してしまった。勿論 後継者などが出るはずもないし、この再生は不可能に近いであろ う。
  更に車を持 たない高齢者は日常の買い物にも困ることにな  ってしまった。
2アメリカ式リストラの定着化
 不況乗り切り策として、日本経営の伝統である終身雇用制を廃止 し、アメリカ式の非情なリストラによって、人件費を低減させる ことが一般化した。
  日本経営の強みは、人は会社の財産とみて、「会社が人を育  て、その人が会社に貢献し、また、次ぎの人を育てる」という慣 行が会社に対する従業員のロイヤリティの高さにつながり、それ が社員の会社に対する献身と貢献に繋がるという関係にあったの だ。これで、その良き慣行が断ちきられてしまことになったので ある。
  全員の給与を下げてでも、人のリストラはせずに、力を合わせ て頑張っもらう、能力の低い者も、解雇を免れたことに感じてよ り奮起してもらうほうが日本的であり、成果も上がったのではな いか。


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2006.08.30 07:48:05

戦後日本は、敗戦の徹底焦土から立ち上がって、世界第二の経済大国にまでのし上がった。この第二の地位を、中国に奪われるかどうかは、日本産業の質的転換の程度とスピ−ド如何にかかっているであろう。
 それはともかく、日本がここまで経済大国になれたのは、日本人の勤勉さもあるが、米国の製品や生産の技術だけでなく、インダストリアル・ニンジニアリングや品質管理あるいはマ−ケッティングについての米国の経営手法を学び、これを導入したことが大きな推進力となったことは確かである。
 日本は、はじめのうちは、米国の経営手法をそのまま真似しようとしたが、これは見事に失敗した。そのうち、米国の経営手法を、日本の経営風土、雇用特性、高い従業員の質、企業に対する高い帰属意識にマッチした形に日本化することに成功して、はじめて成功させることができたのである。
 全員参加の活動、使用集団活動、ブル−カラ−の参画などがそうである。こうした傾向は、1990年代後半のバブル期まで続いた
のである。しかし、バブル崩壊を転機として大きく変ってしまった。


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2006.08.29 10:50:42

歴史の流れのなかで、価値観の変化によってある事柄についての価値判断が変るという例がないわけではない。それが顕著に現れるのは藝術の分野である。生前には一枚の絵も売れなかったゴッホや貧乏に苦しんだモジリアニや、無視され続けた印象派の画家たちの絵が、今日一枚何億円という高値がつけられているのもこの例である。これは時代の変遷で価値判断が変化したことによるものである。
 しかし、冤罪でそれが分かるまで10年もの間、牢獄につながれていたドレフュスやスタ−リンの粛清で処刑された数多くの人たちが、後に名誉回復されたのは、歴史の診断によるものではなく、初めからでっち上げの有罪、処罰だったことが露見したからに過ぎない。
 しかし、この侵略戦争やA級戦犯問題についての価値判断は、人道問題であるから、奴隷問題と同じく、その判断が今後も変るということは在り得ないのだ。
 この問題について「歴史の判断を待つ」などと言い張る政治家(安倍普三)は、自分の反対意見を、国民に説得し、納得させられるだけの論理をもたないが故に、それを、こういう言い方で先送りしようとするレトリックを使ったに過ぎないのである。


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2006.08.26 10:54:39

このような侵略戦争を起こした当時の日本の指導者の戦争責任を問うたものが極東軍事裁判であった。その結果25人に有罪の判決が下されたのだ。
 11カ国から選ばれた判事のうち、全員無罪を主張したのはインドのパル判事唯一人であった。彼は「罪刑法定主義」の法理をたてに「勝者が後で作ったル−ルで敗者を罰することは許されない」という理屈であった。これは一理あると思う。が、理不尽な侵略戦争で被害国のみならず加害国の何千万という人命を失わせた罪状は許されるべきものではなく、その意味では妥当な判決であったと思う。
 第二次大戦後は、各地の植民地で独立運動が盛んになり、国連総会でも「植民地独立付与宣言」が決議されるなど、植民地自体の存在を否定する国際的風潮が一般化したことからしても、侵略戦争を絶対に認めないという考え方は、確定、定着し、この件についての歴史の審判は確定しているのである。


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2006.08.25 11:09:24

植民地化の歴史はロ−マ帝国時代に遡るが、近世以降、15世紀から19世紀の間は主要国による植民地獲得競争の時代であったと言えよう。
その先駆をなしたのはポルトガル、スペインであるが、アメリカを含め、現在の主要国でかって植民地を持たない国はなかった。しかし、その植民地獲得の方法は、布教や貿易、現地有力者の利用など、すさまじき権謀術数こそ用いたが、外見上は平和的な方法で植民地化を進め、戦争という手段に訴えた例は稀であった。こうして、20世紀初頭には植民地獲得競争はほぼ完了していたのである。しかし、長い間鎖国にあった日本は、この間植民地獲得競争には無縁であった。
 日本が植民地を獲得したのは、下関条約で清国から割譲された台湾、ポ−ツマツ条約でロシアから割譲それた南樺太、関東州、日韓合併条約による朝鮮、第一次大戦で委任統治地となった南洋諸島で、これらは侵略戦争によるものではなかった。
 これにあき足らない日本は、植民地獲得競争に立ち遅れた焦りと軍事力の過信から、満州事変、支那事変を起こし、武力で中国大陸を実質的に植民地化しようと侵略戦争を始めたのだ。
 しかし、植民地化に疑問を持ち始めた第一次大戦後の世界は、この日本の強引な植民地化政策を認めず、日本軍の中国からの撤退要求とともに、とくず鉄、石油の対日禁輸などの措置をとったのため、日本は窮して、米英などと開戦するにまでに至ったものである。太平洋戦争は自衛のための戦争というのはこの点を言っているのである。しかし、この説は「盗人の二分の理屈」に過ぎないものと言えよう。


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2006.08.23 14:40:02

ある事柄について、現在の評価が決まっている場合に「今はそうだが、将来その評価が変るかも知れない」という場合に、「歴史の審判に待つ」という表現が使われる。
 これは、その事柄について今現在、肯定的な判断が下されており、それを認めている場合にはそういうことは言われない。自分は、この肯定的評価には疑問をもっているという場合に使われる言葉である。つまり、今の肯定的な判断が将来否定されることを期待したいという言葉なのである。
 ポスト小泉の有力候補として目されている安倍普三は、靖国神社に合祀されているA級戦犯の犯罪性や彼らが惹き起こした戦争の侵略的性格性について、これに否定的な考え方を持っていて、その当否については「歴史の審判を待つ」と述べているのである。この点では小泉よりも安倍のほうが、右よりである。小泉は、かっての日本が仕掛けた戦争の侵略性も、A級戦犯の犯罪性も肯定してはいるからである。
 この問題を掘り下げてみようと思う。


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2006.08.22 14:21:21

「選択における自由」とは何なのか。
 意志決定において、選択肢がある場合に、そのいづれに決めるかということの自由、という意味だが、現実的にはそうとは言えない場合がほとんどではないか。
 選択肢から選択する場合には、判断基準が伴う。家庭の問題では、家庭の円満を維持するためには、ということであろうし、職場の問題では、上司に睨まれるようなことは避けたい、ということであろう。それらを比較考量した上での選択になるのである。それが選択の自由ということあろうが、その比較考量すべき要素は意思決定における外的制約であって、その結果、自分の本当の意志を枉げざるを得ないということになるのである。
 このような、自分の思いを通すことを妨げる作用をする判断要素を無視すれば、会社からも家族からも「協調性のない奴」という烙印を押され、はじかれてしまうことにもなりかねないのだ。それを恐れて妥協することが「選択における自由」ということなのである。
 これが人間の自由の実態である。
 要するに、周囲との関係を考えねばなない場合の人間の自由とは、「協調」という名の妥協を余儀なくされたものなのである。
 だから、それを一切考えないで行動する「自由奔放」だけが、満喫できる自由だと言えるのであろう。 


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2006.08.18 08:04:27

 では、そのような社会的規範の枠内においては人間は自由なのか、そうとも思わない。
 近代の民主主義国家では、市民権的自由、基本的人権としての自由、たとえば、言論、出版、集会、結社、信教などの自由権は認められている。自由には、このような公的活動の自由のほかに、私的な日常行動における自由がある。むしろ、市井の一般人にとっては、その日常生活の上での後者の自由のほうが身近で重要なものであるとも言えよう。しかし、実際には、自分が思うようにやれないことがいっぱいあるのである。
 もの心がついてくれば、親の言うことに従わねばならない。学校に上がれば、先生の言うことに従わされる。就職すれば、会社の上司の指揮、命令に従わねばならない。社長になって上司がいなくなっても、大株主や大得意先の言うことは聞かねばならない。
 家庭を持てば、家庭を円満にするためには、自分を殺して、妻や子の言うことを聞いてやらねばならない。
 こう考えてみると、自由どころか自分を殺すことばっかりではないか、とも思うのである。
ここで考えねばならないことは「選択における自由」という概念である。
 かっては、泥酔して犯した犯罪については、心神耗弱ということで刑を減免されることも少なくなかった。しかし、今日ではそれは認められない。
 アルコ−ルで判断能力が低下するのは分かっているのだから、飲まなければよかったのだ、飲むか飲まないかの「選択における自由」があったのだ、という論理によるものである。
 酔っ払いの犯罪についての、この論理は正しい。が、これは、上記の「自分を殺す」判断に適用できるであろうか。
 


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2006.08.17 09:21:44

自分が「やりたい」と思うことを妨げるものがなにもない状態が「自由」と言えるであろう。
 サルトルは「自由は人間の根源的な在り方である。人間は内にも外にもたよるべきものがなく、自由である以外に在り得ない」と説いた。
 人間が知性と意志を持ち、自由であることこそ人間の生の根源である、と言いたいのであろう。それは間違いないところであろうが、現実の人間は果たしてどこまで自由なのだろうか。
 考えることは自由である。どんな独裁国家であろうと、如何に過酷な独裁者が君臨し、厳しい言論統制を敷いていようと、その統制は個々人の思惟にまでは及び得ない。
 しかし、このような思惟だけの自由では、自由という実感は得られない。自由な思惟だけでなく、それを言論とか出版と言う行為によって公にすることが何者にも妨げられない場合に、はじめて自由感が味わえるのである。それは人間が社会的な存在であるからに他ならない。
 人間が社会的な存在である、ということは、また、その社会を運営してゆくための取り決め、ル−ル即ち法や慣習や道徳といった規範には従わねばならないことも意味している。
 従って、人間に許される自由は、この社会的な規範の枠内での自由であることは言うまでもあるまい。人間の自由は、この社会的取り決めである枠を逸脱するような「奔放な自由」は許されないのである。


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2006.08.14 11:23:08

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